がん検診・予防の体験文の紹介
平成19度 入賞作品
第1位 『1日1日が愛しい』 作者名 川口 佳予子
平成11年1月、その瞬間は突然、やってきました。「進行した食道がんです」という言葉が無残にも鈍く響きました。せめて早期で発見できたらと悔いました。
この日を境に、20年間共に歩んできた夫のがんとの闘病が始まりました。息子18歳、娘16歳。多感な年頃の2人の子供には衝撃的な現実でした。
夫は、言葉には表せないほど悲しく無念だったに違いありませんが、一言も弱音を吐く事もなく、現実を直視し、最後まで希望を捨てず、自身を信じ闘病しました。
がん細胞の勢いは強く、瞬く間に全身を蝕んでしまいました。最後の入院時には、夫の傍にいて欲しいという希望を、1人で暮らさねばならない娘とは
電話での会話を密にする事で乗り越えられると判断し、余命いくばくもない夫の意に添う事にしました。その甲斐もなく翌年、長男19歳(京都にて学生生活中)、娘17歳の春、夫は帰らぬ人となりました。
悲しく寂しくても泣いてばかりいられません。明るく元気な母親でいなくては、と自身に言い聞かせ、久々のわが家に戻りました。
ところが、見知らぬ女の子が同居していたのです。高校を中退して家出中の女の子でした。娘は「大好きなお父さんが、いつ死んじゃうかわからない悲しさと不安の中で1人で暮らすのは寂しかった」。
娘を振り回し、1カ月半も学校に行かせなかった女の子を、私は激しく罵り、出て行くよう頼みました。娘は「友達の事を悪く言うお母さんは大嫌いだ」と言い、一緒に出て行ってしまいました。
この様な事態になり、夫に申し訳ない思いで胸が張り裂ける思いでした。娘は3日目の夕方、疲れ果てた様子で帰宅しました。
私は、その日のうちに、家庭教師を派遣して下さる所に電話をして、勉強もさせながら娘とコミュニケーションとって精神面でのサポートを任せられる心優しい先生を、と依頼しました。私には反抗的な娘も、
先生に対しては心を開いているかのように見受けられ、少しずつ明るさを取り戻してきました。それ以後、休む事なく登校するようになり、ほっとしていた矢先の事でした。
私は、シャワーを浴びた後、鏡に写った右胸のえくぼを発見し、愕然としたのです。夫ががんに侵された時、がんについて色々と調べていた私は、乳がんでは、と直感したのです。「今なら早期発見かもしれない」。
心の片隅では、がんでないようにと祈りながら、病院でマンモグラフィー、エコーを受け、細胞診をしましたが、結果はグレー後日、生検にて乳がんと判明した日の帰り道、父親もがん、母親である私までもがん。
この事実を2人の子供達がどう捉えるだろうか落胆しなければ良いが、と心配しながら家路に着きました。鏡を見ると、憔悴した私の顔が映っていました。「いけない!」。夫のように気丈でいなくては、と自身を励ましました。
夫が守ってくれると信じました。それから1カ月半後、私は、手術室に向かうストレッチャーの上に横たわっていました。受験期という事もあり、娘には、1時からの手術のために、早退までして来なくてもいいから、
と言っておいたのですが、バタバタと足音がしたので、足元を見ると、目を真っ赤にした娘がそこに立っていました。そして、そんな娘の姿を見て「やっと私のもとに帰って来てくれた。もう大丈夫!」と実感した瞬間、涙が止まらなくなりました。
がんになっても感激する事があるんだなあって思ってしまいました。
温存手術は無事、終わりました。結果は、リンパ節転移2個、ステージⅡという事でした。リンパ節転移があった以上、不安が無い訳ではありません。でも、不安がっていても、せっかく元気な今日がもったいない。たった1度の人生、明るく前向きに生きてゆきたい。
術後6年10カ月経った今、子供達と孫に囲まれ、私は、1日1日がとても大切で愛しく、幸せを体いっぱいに感じながら、生きています。