がん検診・予防の体験文の紹介

平成23度 入賞作品

順位 作者 題名
1位 篠田 陽子 涙味の五目きしめん 作品へ
2位 松田 友江 ガンを体験したから分かった事、伝えたい事 作品へ
3位 田渕 浩子 祈り 作品へ
佳作 伊藤 弘子 おっぱいお大事に ホヤホヤのガン患者から 作品へ
佳作 匿 名 特効薬 作品へ

第1位  『涙味の五目きしめん』  作者名 篠田 陽子

「大病も子の身代わりと思や楽」。十年以上前、父が新聞の川柳投稿欄に出品した句である。
  私が高校三年生の秋、母が乳癌を発見した。「発見した」というのは、自分でしこりに気づいたということである。実父を肝臓がんでなくしている母は誰にも相談しないで受診した。疑いをもったとき、身近な人に相談すれば、「心配しすぎ」と温かく慰められ、受診が遅れ、がんが進行するのを恐れたためである。結果として早期発見につながり、賢明な判断だった。父母から手術を含めた治療の話を聞いたとき私は大学受験を目前にして、衝撃を受けた。想像することも恐しく、考えないようにしてきた「母の死」を認識せざるを得なくなり混乱した。
  その夜、一人で横になったところで涙があふれ、声を抑えて長い間泣いた。翌朝、いつもと変わらない食卓に違和感を覚えつつ、母の朝ご飯を食べた。手術前日の入院までは変わらない日常が繰り返されていった。母が入院中の1週間は祖母が手伝いにきてくれることになっていた。
  母は料理が好きで掃除が苦手、祖母はその逆で親子でも全く似ていなかった。母がいない一週間、高校生に大切なのはきれいな部屋よりご飯であることは想像に難くない。父の勤務が不規則だった我が家では必然的に祖母と二人でご飯を食べることが多くなる。私は料理は大好きであるが、当時は帰宅してから、ご飯を作る余裕はなく、平日は祖母の手料理に頼ることになった。料理が苦手な祖母のご飯をあまり食べたことがない私は最初から不安であった。しかし、母が入院している間、孫と娘(私の母)のために一生懸命家事をこなそうと、高齢にも関わらず、手伝いにきてくれた祖母に要望を伝えるのは憚られ、不安を抱えたまま帰宅した。
  見事的中、その日のメニューは五目きしめんだった。いや、正確には五目きしめんのみであった。普段はテーブルに乗りきらないほどのおかずが並んでいた。それがどんぶりにいっぱいのきしめんのみである。味は想像していたものよりおいしかったのだが、量がいつもの2倍をこえるくらいあり、食べているうちに涙がこみあげてきた。食べ慣れた母のご飯ではない寂しさ、もしかするともう一生母の料理を食べられないかもしれないという喪失感、心配そうに見ている祖母に無理に笑顔を見せている悲しさ、自分で作ればよかったという後悔、複雑な思いが駆け巡り、一口目以降は涙の味がした。給食を食べ終わるまで残された保育園児のように、きしめんを食べきることだけを考えてただ噛みつづけた。どんぶり二つだけのテーブルがやたら広く見えた。
  手術当日は誰にも言わずに近所の神社にお参りをした。幸い術後経過は順調で予定より一日早く退院することができた。しばらくは外来で放射線治療に通うとのことだったが、何もできず寝ていてもいいので、母に帰ってきて欲しかった。高校生になれば、反抗期だった頃と比べて、母の有り難みというのは分かっているつもりだった。しかし、思っていた以上に母の大切さに気づくことになった。外来で受けた放射線治療は手術よりも体調に影響を及ぼし、母はとても疲れていたが、家にいてくれるというだけで私は嬉しかったし、徐々にいつもの生活が戻ってくるのが幸せだった。
  家の中が明るく動き始めた頃、冒頭の父の句を新聞で見つけた。雅号で投稿していたが、一目で父の句と分かり、頭を殴られたような衝撃を受けた。乳房は少しは残ったけれど虫垂炎以来の手術、不自由な入院生活、あんなにしんどいといっていた放射線治療。どれもこれも辛いことばかりであったはずなのに、それを『子の身代わり』と思えば『らく』と言い換えてしまう父の愛情に涙があふれてきた。
  手術から十年。今年の健康診断で父に前立腺がんの疑いが指摘された。もし手術をすることになったら今度は私が実家へ行き、ご飯を作ろうと思う。

第2位 『ガンを体験したから分かった事、伝えたい事』 作者名  松田 友江

私は、元ガン患者です。でも、“元”と付けて過去形にしてもいいのか不安です。今でも私の身体にはガンがあるのかも知れない。
  私は六年七ケ月前、大腸ガンが見つかりました。食あたりになり病院へ行ったのですが、いまいちスッキリした気分にならず、もう一度受診して腸の様子を検査する事になりました。初めての検査で、今では飲み慣れたニフレックが当時は全く飲めずに苦労した事を今でも覚えています。検査結果は“大腸ガン”でした。一緒に聞いていた両親、もちろん私も頭が真っ白になり、信じられませんでした。でも、主治医の先生から「死にませんよ。ポリープを切除して、ガンの部分も取って、腸をつなげます・・・。」
  ガンと言えば、“死”と思ってたけど、少し考えも変わり、前向きに頑張る決意しました。
  いろんな検査をしても今のところは転移してなくて、手術の日を迎えました。ポリープはとてもたくさんあって切除するのが大変だったみたいでした。ガンを取り除く為の開腹手術も予定時間を超えたみたいだけど成功して、リンパにも転移してなかったそうです。
  退院してからは、再び同じ事を繰り返したくないから、ネットや本で調べて野菜中心の食生活にしたり、運動しました。術後から半年後の検査では良い結果を期待してたのに、ポリープは私の腸にありました。ガンになってないだけでも不幸中の幸いとは言え、ショックでした。それから、何度も定期的に大腸内視鏡の検査を受けても、私の腸には必ずポリープがありました。そのうち“ポリープの女王”が私の病院での呼び名になってしまいました。「ポリープがあったら取るから、好きな物を食べて、楽しい人生を過ごそう!もちろん、バランス良く食べるんだよ!」そう主治医の先生に言われました。大腸ガンについての情報をいっぱい調べて実践したけど効果が無いなら、「これダメ。あれは良い。こうしなくちゃ・・・。」ってストレスを抱え込む生活より、定期的に忘れずに検査を受けてポリープの女王は元気に暮らしてます。
  でも、一番初めの時にもう一度受診して良かった。あの時の判断で今の私がいる。もし検査してなかったらガン細胞が転移して、今こうしてポリープの女王は存在して無かったと思う。
  私の住む○○市では年齢に応じて検診の補助があるから、仕事が忙しいから・・・とか、病気になる訳がない!って自分勝手な判断をしないで、検査して異常が見つからなかったら良い事なんだし、初期の段階で見つかる事で辛い検査も少なく済んで治る可能性が高いから。たった一日、検査のために使って異常なしを言われたらラッキーだもん。自分の体は一番自分が分かってる!って言っては手遅れになってしまう事だってある。補助券がもらえなくても自分の体を大事に思ってあげて毎年でも受けるのがベストだと私は思う。
  大腸ガンになる前の私は、頭痛もちだけど、他は元気な体だったから告知された時は本当に驚いた。健康な人ほど検診は大事なのかも知れない。知らないうちに病魔が住んでても気付かないし、気付かないフリをしてしまうから・・・。ガン=死って言う考えは古い。今は医療もかなり発達してるから復帰できる可能性はかなり高い。
  でも、その条件として検診して早期発見が大切。早期発見して治らない病気はほとんど無いと思う。情報化社会の今、ネット等で予防策もあるけど全員に効果が出るとは限らない。一人一人違う遺伝子を持ち、体質も違うから予防だけではなく、同時に検診を受けて健康な体を大切にしてもらいたいです。
  愛する人、愛してくれる人が身近にいるはずです。私にも愛する旦那、娘、両親、友人等がいます。その人達のため、自分のためにも検診を受けて二度とガンの告知を受けないように予防していきます。ガンの予防は、検診するのが一番だと私は信じてます。

第3位  『祈り』  作者名 田渕 浩子

昨年の夏、八月の暑い日でした。父の墓参りに兵庫へ家族で行った日の事。約束した理由でもないのに、弟がそこへヒョッコリとバケツを持って、やって来ました。
  弟は四十二才で、実家で母と二人暮らしをしていましたが、七年前に母が入院してからは、一人で生活していました。弟の仕事も忙しく、私達は四年ぶりの再会でした。
  墓参りを済ませ、久しぶりに会えたのだからと食事に誘うと、「最近、胃がムカムカして食べられないんだ。」と言うのです。そう言えば少し痩せたかな?という印象はありました。今から思えば、なぜあの時に・・・と後悔しましたが、後の祭りです。
  その年の秋、胃がんである事が判明しました。しかも、余命半年―。
  知らせを聞いて私達も驚きましたが、本人は納得がいかない様子で、「この病院の医者は信用できない。」と、知人の紹介で大阪の病院へ転院する事にしたのです。
  しかし、そこでも診断は同じで、「すでに手遅れで胃に何度も穴が開き、おそらくガンはそこから外へ出ていると考えられるので、転移するだろう。」と言われ、「やはり余命は半年でしょう。」と、担当医の先生から伺いました。私は、すぐ図書館でガンについての本を読みあさりました。今まで、話しには聞いていましたが、実際、癌について何にも知らなかったのです。胃癌についての本を、何冊読んだのかわかりません。テーブルの上にはいつも、癌についての本がいくつも積まれていました。
  あれから一年。弟は胃を全摘し、今でも放射線と薬物療法を続けています。二月には入院中の母が亡くなり、弟も本当の一人になりました。他の病気なら、ここでエンドなのでしょうが、癌の本当の恐ろしい所はこれからで、癌は再発するかも知れない。と言う所にあります。「再発」、「転移」と言う言葉に日々怯えながら、高い治療費を払って放射線をあび、薬を飲まなければなりません。最近、原発の放射能被曝が問題になっていますが、弟はある意味お金を払って被爆しているのです。
  今回の出来事で、私達は癌についてや、死についても夫婦で話し会う機会を得ました。身内に癌になった者が一人もいなかったから、私は大丈夫と思っていました。 考えてみれば、弟は小さい頃から、塩分の濃い食べ物が大好きで、毎食の様に食べていました。原因は、それだけではないでしょうが、胃癌の場合、塩分の摂り過ぎもその一因と考えられているそうです。癌にならず、健康で生活するためには、食事内容を見直してみる事も大切だと思います。塩分を控えた食事と、野菜を中心にする事を心がけるようになりました。
  そして、今年から癌検診も受けています。恥ずかしいのですが、今まで癌検診も受けた事が無かったのですが、初めて先日子宮癌検診を受けました。弟の事もあり、ドキドキで、朝から緊張して病院へ行きましたが、5分と時間はかからず、「えっ!!もう終わり?」と思ったほどです。
  会社の健康診断を受けていても、癌を見つけられるとは限りません。弟も、毎年会社の健康診断を受けていましたから。健康でいられると云う事は、とてもありがたい事です。ですが、ついその事があたり前になってしまっています。
  残される家族のためにも、予防は普段の生活から。癌検診はこまめに受ける事が大切です。弟は今、転移も無く、毎日仕事をしています。私達は、何事も無く、このまま時が過ぎてくれたらと、毎日、神様に祈っています。

佳作 『おっぱいお大事に ホヤホヤのガン患者から』  作者名 伊藤 弘子

  乳ガン手術を受け、退院して二週間目で書いています。ホヤホヤのガン患者です。
  私は乳ガン検診を受けていませんでした。二十~三十年程前、左胸にしこりを感じて、近所の病院に行ったことはあります。その当時はマンモグラフィはなく、触診で「乳腺が張っているのでしょう。多分大丈夫でしょう」と言われました。それで私は安心しきっていたし、うちの家系にガンになった人はなく、母も祖母も脳梗塞で亡くなっているので、当然私も脳梗塞で死ぬのだと思っていました。それに私はペチャパイで、何となくペチャパイは乳ガンにならないだろうと思い込んでいました。
  有名人が乳ガンになったとか、テレビで取り上げられた時に、あわてて触ってみる位で放ったらかしにしていました。でも今回何の気なしに触れてみて、不気味なしこりを発見し、何の根拠もなく危ないかもしれないと思いすぐ病院に行きました。でもマンモグラフィは拒否しました。妹がマンモグラフィ検査を受けたことがあり、すごく痛かったと聞いていたからです。でも触診や超音波で疑わしいから、どうしてもマンモグラフィを受けることになりました。その痛いことと言ったら!
  その結果、やっぱりガンでした。ガンの大きさはそれほどでもないけど、乳頭に近く、少し離れた所にもう一つ小さいのもあるそうなので、全摘ということになりました。ガンとは思っていたけど温存かなっと思っていたので、ショックでした。冷静でいたつもりなのに、頭の中はまっ白になっていたらしく、その時の医師とのやりとりはほとんど覚えておらず、自分の都合のいいように覚えているのでした。いろいろ本を読むと、他の三人四人の医師に聞いてみると、みんなが違うことを言ったそうで、そんなことになると私は益々自分で決められなくなりそうなので、最初の医師を信じて手術を受けることにしました。
  誰だって全摘より温存の方がいいに決まっているけど、仕方ありません。温存となると後に放射線療法とかがあるそうですが、副作用が怖かったし、全摘で副作用の少ないホルモン療法にしたことを悔やんではいません。
  手術は全身麻酔なので何も覚えていませんが、手術後の喉の渇きと息苦しさ、身動きできぬ体の辛さには参りました。でもそれを克服すれば人間の体は結構しぶとくできているらしく、日一日と回復していきました。手術の翌日には、ドレーンをぶら下げて歩け歩けと言われました。数時間前までは上体も起こすなと言われていたのに、掌を返したようです。胸の傷跡は正視できませんでした。今でもまだそうです。小さいなりにおっぱいはけなげだったと思います。右の胸は穏やかに呼吸してるのに、左はセメントで塗り固められたように突っ張っていて、息苦しいのです。
  左腕は高く上がらないし、少し痺れています。でも右手で何とかなるし、日常生活に困ることはありません。でも体をかばっているせいか、疲れやすいです。これからどうなっていくかわかりませんが、ホルモンの薬を飲み続けていきます。再発することを日々意識して暮す生活は、ストレスのかかることと思うけど、できるだけ楽しいことを見つけて生きていきたいと思います。
  最後に一つ付け加えたいことは、マンモグラフィ検査を受ける人はまだ二十%位とか。痛いとか恥ずかしいとか面倒臭いとかいうことがあると思うけど、それは一時的なこと。若い人も中・(高)年も受けるべきと思います。乳房を失うということは辛くて悲しいことです。何とも言えない寂寥感もあります。
  小さいなりにけなげで、一生懸命息づいていたおっぱい。気づいてあげられず、守ってあげられなくてごめんね、と毎日謝っています。働き盛りの女性は特に、自分の乳房に関心を持ち守ってあげましょう。
  林家三平さんじゃないけど「おっぱいだけは大事にして下さいね。大変なんですから」自分で病気は選べません。まさかと思う病気になるのです。

佳作  『特効薬』  作者名  匿 名

「いい加減にしなさい。いくら子供の面倒を見なくちゃいけないからと言っても、今の状態で、おいそれと自宅に帰すわけには行きません。もっと自分の体を大切にしなさい。」
  あの日、眉間にしわを寄せながら、本気で私を叱ってくれた病院の先生。大人になって初めて叱られたあの日、急遽入院した私を病棟で待っていたのはある女性との出会いだった。
  「私なんて・・何の価値もない。」
片目を眼帯で覆い、常にそう呟く彼女と、初めて会ったのは、今年の三月の事だった。
     「こちらの病室です。」
看護師さんが案内してくれた病室の入り口の名札には、三人の方の名前が書かれている。
  「よろしくお願いします。」
眼帯で目を覆った三人の方の顔が、部屋を区切るカーテン越しに、チラッと覗いた。
  「こちらこそ、よろしく。」
この言葉は、彼女が私に初めて掛けてくれた、言葉になったのだった。
  彼女は、半年前からずっとこの病室で入院している。退院できる、その日を待ち焦がれながら彼女は幾度となく手術を受けたという。
  「私、目のがんなの。確かに病状によっては、とても見えづらい時もあるわ。でも、いくらかすんでいても本当にちょっぴりでも、今は見る事ができて私幸せなの。だって私、数ヶ月前全く目が見えない時期があったから。」
  手術には成功したものの、経過が悪く、次の手術を受けるまでの二週間、全く目が見えなかったのだと、あっけらかんと話す彼女の様子に、私は、心底驚いてしまった。
  「全く見えないって・・。どうしてたの?」
地方から出てきて、全く身寄りのない彼女。思わず私が、そう問い掛けると、
  「よく見えたよ。人の優しさが・・・。」
と、一言だけ彼女は、呟いたのだった。
彼女の話の中には、よく一人の看護師さんが登場した。周りの人達が、彼女を気遣って、何でも手伝ってくれる姿とは対照的に、その看護師さんは、いつも彼女の姿をそっと後ろから見守って、本当に困っている時にだけ、さっと手を差し伸べてくれたのだという。
  「目が見えないからこそ見える物もある。」
ただただ手伝ってあげる事が、すべてその人の為になるとは限らないと、その看護師さんはきっと知っていたのだろう。その看護師さんの話をしている時の彼女の表情は、いつになく穏やかで、本当に輝いていた。
  私は、十日間の入院生活の中で、たくさんの事を彼女から教わった。命の尊さや、はかなさ。現実を前に、立ち尽くす私の心を救ってくれたのは、彼女の明るい笑顔だった。
  「私なんて・・・何の価値もない。」
なんて、いつも彼女は、口癖のように言っていたけれど、そんな事はない。なぜなら、彼女はまっさらな鏡のような人だから。人の優しさを映し、人に優しくし、人の泣き顔を映し、自らも泣く。そんな純粋な人がまだこの世にいてくれる事が、無性に嬉しかった。
  退院を間近に控えたある日。沈み行く夕陽に照らされた中庭にある一本の木を眺めていた私の瞳には、枝々にとまる無数の鳥の姿が映し出されていた。
  「こんな場所にこんなにたくさんの鳥が。」
驚きと共に私の目には、その枝々がまるで家族が集う温かい家庭のように思え、家において来た我が子をふいに思い出し、なんだか急に切なくなってしまった。すると後ろから、
  「早く元気になって家に帰らなくちゃね。」
と一人の看護師さんが、声を掛けてくれた。後にその看護師さんが彼女の話の中に登場していた看護師さんである事を私が知ったのは、退院してからの事だった。
  「手伝ってあげる事が、すべてその人の為になるとは限らない。」
がん患者の傍らで、懸命に闘病生活を支えている方に、是非伝えたい。「心にそっと寄り添う事」が、一番の特効薬になりえるという事実を・・・。