がん検診・予防の作文の紹介
平成24年度 入賞作品
順位 | 作者 | 題名 | |
---|---|---|---|
最優秀賞 | 藤沢 聡 | 妻の肺癌 | 作品へ |
優秀賞 | 大菅 善章 | 夫婦でがんに・・・。でも早期でよかった! | 作品へ |
優秀賞 | 匿 名 | 夫婦で癌になって | 作品へ |
佳作 | 長谷川 幹子 | がんが教えてくれたこと | 作品へ |
佳作 | 匿 名 | がん治療を経験して | 作品へ |
最優秀賞 『妻の肺癌』 作者名 藤沢 聡
台風5号崩れで雨がたくさん降った6月21日夕、外出から自宅のあるマンションに戻り、いつものように6階までエレベーターに乗った。昇りボタンを押そうとしたとき、右側面の連絡貼紙が目に飛び込んで来る。
「居住者各位」で始まって、「バルコニーにおける喫煙について」とタイトルが続く。アンダーラインを付けた内容は、「バルコニーで喫煙された煙草の煙がお部屋に入ってきて困る、との連絡が居住者よりございました。煙草の煙は、吸った後、想定以上に近隣住民に広がり、また、吐いた煙草の煙は吸ったものよりも害が大きいとの調査結果もあります。お部屋内で喫煙していただくなどの対処をお願いします」とある。煙草を吸い過ぎると、吸う方は勿論、周りの人も怖い怖い肺癌に罹ってしまうよと、示唆しているのが誰にでも分る。
私は煙草を吸わない。だから、以前だったらこんな警告、関係ない、で無視しただろう。だが、そのときの心理状態は、この文言を深刻に受け止めざるを得なかったのである。
約4ヶ月前まで遡る。2月8日、ショッキングなことに、私の妻は、名古屋市の病院で「肺癌」の手術を受け、右下葉を全部切除してしまった。2年前の平成22年5月ごろ、妻は、夜中に急に胸が痛み出し、目がさめてしまうということが断片的だが3度くらい続き病院に行った。そして胸部CTで陰影病変を指摘された。その後、様子を見ていたのだが、その病変が少し大きくなり、癌が疑われるようになった。
平成24年1月19日、手術適応について外科初診、ほとんど間を置かず手術を決めた。肺癌との診断が確定したのは、術後1週間過ぎた2月15日だった。術後経過は良好で翌16日に退院した。手元にある記録によると、手術名は「胸腔鏡下肺悪性腫瘍手術(右)」である。
ちなみに、妻は煙草など生まれてこのかた一度も吸ったことはないそうだ。
昨12月中旬、「お父さん、先生が『ご主人にも来てもらってください。病状を説明しますから』と仰ったわ」この言葉を聞いたときは、未だそれほどの〝恐怖感〟はなかった。だが、外来の診察室で、妻といっしょに「癌の疑いが極めて強いです。場所が場所だけに外から細胞を摘出して病理検査をすることはできません。癌かどうかの確認は開いて見なければ分りません」と聞かされたときは、一瞬、目の前が真っ暗になった。だが、もし癌だとしても、早期発見なら、長生きできる公算は強い。私たち夫婦が手術を決断するのに躊躇することはなかった。
術後4箇月余が過ぎた現在、平穏な生活を取り戻している。私は家事をいっさい手伝わなかった。実際のところ、ゴミの出し方すら知らないダメ夫だった。妻の入院中、もし妻が死んで一人ぽっちになったら、どうやって日常の生活を営んでいったらいいのだろう、しばらくは放心状態というか、途方に暮れてしまっていた。妻がいかに貢献してくれているかを身にしみて感じた。
煙草を吸わなくても肺癌になる人は、世の中にたくさんいる。酒を呑まなくても肝臓癌になる人も多くいる。また、その逆もしかりである。要はどんな場合においても、どんな人であれ、お医者さんの言うように〝早期発見〟しかあるまい。そのためには定期的な検診を受けるしかない。人間、誰でも健康で平穏に生活できているうちは、面倒臭い気も働き、検診を受けるのが億劫になりがちである。私自身、65歳の今、5年前に定年退職して以来、適切な健康診断らしいものはなにも受けていない。幸いなことに名古屋市では、年に1回無料で健康診断を受けられるし、ワンコイン(五百円玉ひとつ)で肺癌や、その他の癌も発見できる検査をしてくれる。
妻の肺癌を機にして、私はきちっとそれらを受け、健康で長生きしたいと真剣に願っている。
優秀賞 『夫婦でがんに・・・。でも早期でよかった!』 作者名 大菅 善章
2007年の初夏。お風呂上がりの妻が
「蚊に刺されたみたい。かゆいなぁ。」
と言って胸をかいていた。
その時「あれ!?胸にしこりが有る!ちょっと触ってみて」
と言われ、触れてみると確かに"しこり"が。
妻は翌日近所の病院に行ってみた。
夜、仕事が終わり帰宅した私に
「乳がんの可能性が高い!すぐにA病院に行くように。紹介状を書くから」
と、言われたと、診断結果を報告した。
なんともいえない空気が家の中を襲う。
「A病院での診察結果が出るまでは乳がんと確定した訳じゃないから」
と、意味のない事を言う私!
でも、それしか思い浮かばなかった。
我が家は義母と私たち夫婦の3人家族。
お互いが40代に入ってから、妻が
「子供が欲しい!不妊治療を受けたいんだけど」
そう言って治療に通っていたが、仕事と家事に付け加えての不妊治療。
何にでも一生懸命な妻だから、特に仕事と治療の板挟みに合い、精神的に疲れて治療を途中で断念して間もない頃の乳がん発覚でした。
最終的な診断を受けて、間違いなく「乳がん」と言われたが、幸いにもまだ早期での発見で手術を含め約10日間の入院でした。その後手術で採取したがん細胞を調べてみたところ、先生から「早期だが、がん細胞の種類が良くないので抗がん剤治療が必要です。この先妊娠は諦めて下さい」と言われました。
抗がん剤を投与すると、男性は精子に、女性は卵子に深刻なダメージを与えてしまいます。
「それならば、最後にもう一度チャンスが欲しい!がん治療と不妊治療を一緒にできませんか?」
先生は頭をかかえていたが、
「可能性を一緒に探してみましょう」とおっしゃてくれた。
結局、外科手術の後、体外受精のための治療と準備をし、それが終わり次第抗がん剤とホルモン治療をする事に決まった。
その全てを終え、受精卵を妻の身体に戻すまで2年以上の歳月が流れていきました。
その間の2008年の春から夏に向かっている時期に、今度は私の身体に異変がおきた。2週間のうちに何度か「タールべん」が出た!
他にもウワサに聞いていた消化器系のがんの症状が出た。
普段は「こんなに悪くなるまでよく我慢してたね~」と医者に言われる私だが、今回はなにやら胸騒ぎがし、すぐに病院に行きました。そうしたところ、胃の内視鏡検査で1stステージのがんが見つかりました。
手術を含めて2週間強の入院生活。その間、抗がん剤で髪の毛がすっかり抜けている妻が毎日通ってくれました。私は、術後5日を過ぎてからはすっかり元気になったので、「どちらが入院患者かわからないね」と、妻と冗談を言っていましたが、そんな妻には感謝の言葉しか浮かびません。
その後、妻は抗がん剤治療を終え、約半年間体内から抗がん剤が抜けるのを待って再度不妊治療を開始しました。
2007年に凍結保存しておいた胚を3月に移植しましたが残念ながら良い結果が出ず、5月に再度移植した結果、2週間後の5/31に「妊娠反応陽性」という結果となりました。
年齢からみて、移植しても着床する確率が1~2%。それを考えると無事に生まれる確率は、0.1%位にしかなりません。ある意味奇跡を祈るばかりでした。
年が明け2011年1月18日にその奇跡が現実に。
帝王切開で3124gの元気な男の子が生まれてきてくれました!
我が家の場合、早期のがんだったため、乳腺外科医、産婦人科医共に妊娠・出産にチャレンジさせてくれました。残念ながら末期等で母体が妊娠・出産に対し「もたない」と判断されれば、チャレンジも出来ません。
その意味からも早期発見のため、がん検診に足を運んで下さい。
特に、この先子供をもうける可能性のある方々には切にお願い致します。
優秀賞 『夫婦で癌になって』 作者名 匿 名
夫の異常に気付いたのは、風呂から出た夫の肩に目をやった時だ。夫は、皮膚に傷ができるとみみずばれのようになる体質で、背中や肩に幾つもの跡がある。その内の一つが異常に大きく、色も赤紫だった。私は、
「絶対におかしいよ。1度医者に診てもらったら?」
と夫に言った。夫も自分の肩を鏡に映した後、
「やっぱり変だな。皮膚科で診てもらうよ。」と答えた。
皮膚科で診てもらったところ、大きな病院で診てもらった方が良いと言われ、夫は大学付属病院で診察を受けた。組織をとって検査したところ、悪性の腫瘍とのこと。
「えっ、悪性?夫が癌に?」
私の頭の中で癌という言葉がぐるぐると渦巻いていたが、夫が冷静に話をしたためか、私もショックを受けているにも関わらず、取り乱すことはなかった。
それからが慌ただしかった。夫は手術までに職場で仕事の段取りをして、入院した。
手術は肩の腫瘍を深く、広くとり、脇腹から脂肪や筋肉、皮膚をとって肩に移植するという大手術で、朝の8時半に手術室に入室、手術が終わったのは、夕方の5時であった。
私は集中治療室に入ると、夫の顔を見て、
「よく頑張ったね。」
と声をかけた。夫も
「ありがとう。」
と答えた。夫の手術は無事に成功した。心配した転移もなく、本当に良かった。
夫がこんな大手術を受けたのは初めてだったが、それ以降、1日1箱吸っていた煙草をぴたりと止めてしまった。私や子ども、孫たち家族が、どんなに煙草を止めてと言っても全く聞かなかったのに。今では、夫も毎日元気に仕事を続けている。
夫が手術をした年の暮れ、私が乳癌検診でマンモグラフィを受けたところ、医者から要精検と告げられ、びっくりした。自分でも手で触れてみると、確かにしこりがあった。
「えっ、いつの間にこんな大きなしこりが。」
私は指摘されるまで、全くしこりに気付いていなかったのだ。
年が明けた1月に、しこりの組織をとって調べたところ、乳癌であることが分かった。私は夫と違い、煙草も酒もやらないので、自分は癌にはならないと勝手に決めつけていた。でも、そんなことは関係ない、誰でも癌になる可能性があるのだとその時思い知らされた。
地域の癌拠点病院を紹介され、検査を受けたり、手術の説明を受けたりした。私は右乳房切除術とセンチネルリンパ節生検の手術を受けた。しこりの大きさは、2.3センチメートルで、右わきのリンパ節に癌細胞は無かった。もし、リンパ節に癌細胞があった場合にはリンパ節廓清を行わなければならず、そうすると腕にむくみが出ることがある。だから、リンパ節に癌細胞が無くて、ほっとした。その後今日まで、家族に支えられながら抗癌剤治療を続けている。
抗癌剤投与後1週間は、吐き気や倦怠感、口内炎、脱毛、味覚異常等の副作用に苦しめられる。このまま癌が再発して、年老いた両親よりも先に死んだらどうしようと思うと眠られない日々が続くこともある。しかし、体調が良くなってくると、親よりも先に死ねないと思う自分がいる。
私は自分だけは癌にならないと思い込んでいた。しかしその私も乳癌検診のおかげで、乳癌を発見することができた。欧米の乳癌の検診率は70%だが、日本はわずかに20数%しかないそうだ。
私のように乳房を全部とらなくてもいいように(乳房再建という選択肢もあるが、私は行っていない)また癌で悩むことがないように、世の中の女性にはぜひ癌の検診を受けたり、自己検診をしたりして欲しいと思う。自分や愛する家族のためにも。
佳 作 『がんが教えてくれたこと』 作者名 長谷川 幹子
私とがんとの出会いは、10年前誕生日前日8月21日の夜でした。夫と二人の娘の将来を話していました。コーヒーの用意に台所に行き、なにげなく手が左乳房にふれ、まさかと驚きました。以前、保健センターの女性の病気についての講習会で、乳がん触診模型をつかっての自己診断の方法を教わりました。指先が左乳房に大豆ぐらいのしこりを確認したのです。
市民病院で検査を受けました。思った通り乳がんと宣告されました。手術を勧められました。まるで人ごとのようで気持ちは追いついていきません。悪い夢でもみているように、入院手術と時間は流れていきました。
退院してからがたいへんでした。入院前は健康体だったのに退院後はまるで病人でした。なんだかとても疲れやすく、出好きの私が出かける気にもなりません。左腕はまっすぐ上にあがりませんし重い物は持てませんでした。いただいた資料をみて、1日3回のリハビリを行いました。1か月程たつと放射線治療が始まりました。5週間毎日バスで病院に通うことになりました。「つらかったらタクシーで帰ってくればいい」と夫は言ってくれました。高い医療費を払った後のこと、とても乗る気になれません。土日はお休みでしたから木曜日の帰り道、あと1日、あと1日と言い聞かせて、バスに乗りました。この気持ちは今でも忘れることができません。
3か月位は何もする気になれませんでした。家事は家族に迷惑がかからない程度にしかできませんでした。時間はたっぷりあるのに大好きな読書をする気にもなりません。最悪の事態ばかり考えていました。やり残したこと、やらなければいけないことは何かと考えるようになっていました。
それは、『二人の娘のために、もっと母親業をしたい』ということに気づきました。わが子がいなかったら、今の私があったかどうかわかりません。娘たちのために生きたい、力になってやりたい、手伝ってやりたいということでした。ようやく光がみえはじめました。一時期、いたわられても無視されても気が滅入り、年輩の人の活動的な姿をみてうらやましく、また苦しみました。そのくせ、優しいまなざしで「たいへんだったね」と、ひとこといわれただけで、ほんとうにうれしかったことも覚えています。ことばがけのむずかしさも知りました。「たいしたことなくてよかったね」「放射線治療は受けない方がいいよ」、などとわけしり顔で言われると、なぜか素直に受け取れずいらだちました。
このつらさは健康な人には分かってもらえないと思いました。経験者から、個人差はあるが心身とも元気になるには早くても3年、普通は5年ぐらいかかると思った方がいいよと言われました。そのとおり、5年目にはいったころから不思議な安らぎを感じ始めました。何かしたいという気持ちが芽生えてきました。とてもうれしいことでした。病気を体験して、肩の力が抜け自然に生きていけるような気もしてきました。
現代医学の力により、生かされていることに感謝し、一日一日を大切に生きていきたいと思っています。いつも言っていると夫には笑われますが、病気したおかげで「今が一番しあわせ」と、あたりまえの日常生活に満足できるようになった私がいます。精一杯二人の娘を育てようという気持ちに気づかせてくれました。この先の生きがいを見つけることができました。病気にならなければ気付かなかったことでしょう。家族が健康でおだやかな日が一日も長く続くことを祈る毎日です。
毎年がん検診を受けていたことと保健センターの講習会に参加していたので早期発見、早期診断、早期治療ができたことに幸運を感じています。
佳 作 『がん治療を経験して』 作者名 匿 名
平成20年の春、私は乳がんと診断されました。その時の私は、「がんで亡くなった母と同じように、私も近い将来死ぬだろうか。」との思い込みで、『がん=死』と言う言葉が頭の中で一杯になりました。
あれから4年余り、私が先進医療として受けたセンチネルリンパ節生検が2年後に保険適用となりました。また臨床試験で受けたハーセプチンの術前治療が昨年11月に承認され、標準治療が可能になりました。その他の治療においても、診断方法や手術方法そして薬物療法や放射線療法も、日進月歩しています。
しかし、がんの死亡率は、年々増加傾向にあります。この一因として、私達一般人の『がんに対する関心の薄さ』が、挙げられるのではないでしょうか。恥ずかしながら私もがん治療をする前は『がんと言う病気』について、真剣に考えた事はなかった様に思います。
私が『胸のしこり』に気付いたのは、仕事をしながら、父を在宅介護していた時でした。突然の介護は、父の終末を一緒に生活できる充実感を味わいながらも、想像を絶するものでした。この様な時期に、身体に異変を感じた私・・・父の看病途中で亡くなった母への思い。今までお世話になった職場への感謝の気持ち。私が受診のため病院を訪れたのは、父が亡くなり、仕事の整理をした後でした。
予期せぬ突然の介護で生活に追われ、自己を失い周囲を見る事が出来なかった私を、主治医の先生は、優しく迎えて治療して下さいました。また看護師さん達からも、沢山の励ましをいただきました。私は病院職員の皆様に感謝すると同時に、『がん医療』に一所懸命に取り組んでいる姿を目の当たりにして、自身のがん治療に対する考えを一新しました。
母ががん治療をした十数年前に比べ今は、医学の進歩と共にインフォームド・コンセントを大切にする医療の下、治療方法が選択出来る様になりました。診療の予約も一般化されて待ち時間が短縮され、生活に合せた診療が受けられる様になりました。治療においても特に驚いたのは、術後の入院期間が短い事や抗癌剤治療において制吐剤などの開発により副作用が緩和される様になり、その上殆どの抗癌剤治療が通院で受けられる様になった事です。この様に医療は確実に進歩しています。
しかし、治療を始めたの頃の私は、がんについての情報が氾濫している事もあり、不安が募るばかりでした。そんな折、がんに関する『公開講座』に参加する機会を得て、先生方の『科学的根拠に基づいた情報や知識』を拝聴するうちに、不安が薄れ、将来への希望を持つ事が出来る様になりました。
そこで多く方々も、これらの公開講座に耳を傾け、「がんに関する知識を、会得するべきではないか。」と考えを新たにしました。
「2人に1人ががんになる。」と言われる現在、2分の1の幸運でがんになっていない人も、がんと言う病気を自分の問題と捉え、がんに関心を持って欲しい。そして、「今自分は何をしなければいけないのか。」と言う事を、この機会に考えていただければと思います。
一時は死を覚悟した私でしたが、再発や転移の不安は残るものの、現在は元気に生活を謳歌しています。そして生活が落着いた今、自身のがん治療を振り返って感じている事は、「早期に治療すると、殆どのがんは治癒できる。しかし、治療が遅れるほど、治療が困難になり、治療費も嵩む。」と言う事です。
すなわち、がん治療は『早期発見・早期治療』が重要です。そのためには『がん検診』の必要性と同時に、『身体に異変を感じたら、すぐに受診する事』が大切です。
そしてもし、「生活に不都合な事があっても自分で判断せずに、医療機関や公共機関で相談して欲しい。」と痛感しています。
「がん治療は、患者の受診から始まります。自分の身体を守れるのは、自分しかいない。」この事を肝に銘じ、がんと言う病気に関心を持って生活していただきたいと思います。