がん検診・予防の作文の紹介
平成25年度 入賞作品
順位 | 作者 | 題名 | |
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最優秀賞 | 匿 名 | 検診が教えてくれるもの | 作品へ |
優秀賞 | 船田 真由美 | 父の病気が教えてくれたこと | 作品へ |
優秀賞 | 鈴木 美紀子 | がん予防について思うこと | 作品へ |
佳作 | 田口 静江 | がんになる前に体の声に耳を傾けよう | 作品へ |
佳作 | 成瀬 康子 | がんの作文 | 作品へ |
最優秀賞 『検診が教えてくれるもの』 作者名 匿 名
「えっ、手術?」「入院?」
検診の結果は一瞬にして日常を変える。その結果次第で、当たり前だった今までの暮らしが当たり前でなくなってしまう。
私の妻が乳がんになった。右胸にしこりらしきものがあり、病院で早速診てもらった。診断の結果、右胸のしこりは単に嚢胞だったのだが、まったく予想していなかった左胸にあやしい影があると診断された。ウソだろ、と思ったが、細胞組織診の結果、あっけなくがんだと判明した。あまりに突然のがん告知に、やはり、ウソだろ、としか思えなかった。
青天のヘキレキとしか言いようがない、我が家に突然降ってわいた悲劇。しかし早期発見ということが救いだった。手術も、乳房が温存できる部分切除でいいという。少しだけ胸をなでおろした。
手術当日、簡単な手術ということで、私は正直安心していた。しかし、がんは手術をしてみないとわからないものである。手術時間は予定を大幅にオーバーした。ないであろうと思われていたリンパ節への転移がみつかったのだ。手術後、今後の治療として抗がん剤投与の可能性を示唆された。リンパ節に転移していた以上、リンパにのって体のどこかへ移動した可能性のあるがん細胞を、根絶するための投与だという。
早期発見で安心しきっていた私は甘かった。抗がん剤で妻の髪が抜け、嘔吐に苦しむ姿を想像する。だが、リンパ節に転移していたのだ。苦しくても抗がん剤で治ればそれでいい。しかし…大げさすぎるかもしれないが、はじめて妻の死がよぎった。
正式に抗がん剤を使用するかどうかは、手術で取ったがんの病理検査に基づいて決めるとのことだった。検査結果を待つ一か月間は、複雑な心境だった。妻が退院すると、これでがんの治療はすべて終わったという気がしてくる。よく頑張ったな、と思えてくる。一方、妻は暇をみつけてはインターネットでカツラを物色していた。妻のほうが現実を見ていた。私のほうが現実を直視できない臆病ものなのかもしれない。私がしたことといえば、タバコをやめたことくらいだ。検査結果次第で、すぐに抗がん剤投与がはじまる。
そして検査の結果を聞いて、私たちは心からほっとした。がんの性質はおとなしく、抗がん剤の必要はないとのことだった。一か月ほどの放射線治療と五年間のホルモン療法が待っているが、普通の生活をおくれるということ、それがどれだけありがたいことかと思った。
今では、朝食後のホルモン療法薬の服用は日常となった。定期検診の日は、少しびくびくしながら、何もないことを願うだけだ。
それにしても、今回のがんの発見は実に幸運だった。まったく自覚症状がない左胸にがんがあったのだ。右胸のしこりは多分嚢胞だろうと思っていたものの、ピンクリボン運動に感化されて一応診てもらおうと、妻は病院に行っただけだったのだ。
がんは密かに忍び寄り、その存在を隠している。少しでも不安に思ったら、まずは検診を受けたほうがいいかもしれない。その不安がサインかもしれないからだ。
検診を受けに行くのは、正直わずらわしいと思う。妻もそうやって先延ばしにしてきた。ましてや結果が陽性ならば、確実にその日から何かが変わり、何かがはじまる。
しかし検診は、日常という当たり前のありがたさを、本人だけではなく周囲にも教えてくれる。
優秀賞 『父の病気が教えてくれたこと』 作者名 船田 真由美
「船田さん、あなたはがんです。手術しないと余命一・二年ですよ」一昨年の十一月、医師から父へ投げかけられた言葉だった。
ドラマで見るような深刻な雰囲気かと思っていたが、びっくりするほどアッサリとした告知だった。
どちらかと言えば病院は苦手な父だが、だいぶ前から胃のあたりの不調を感じて病院へ行った。そこでがんの疑いがあると言われ、精密検査を受けた。家族と一緒に結果を聞きに行き、がんだと説明を受けた。
若い頃から大きな病気をしたことはなく、年齢のわりには、たくさん食べられて体力のある父。身近な親せきにがん患者は見当らない。他人事だと思っていた病―がん。本人はもちろん、家族も未知のことで戸惑ってしまった。
がんについての知識が全くない。私は娘としてどうしたらいいのか分からず、インターネットや本から情報を収集した。
父の病名は「十二指腸乳頭部がん」。初めて耳にした名前だった。がん自体は小さいが、複雑な場所のため、広範囲を切除しなければならないとのことだった。
手術後は、たくさん食べられなくなるだろうというお話があったので、子ども達と一緒に食事に行った。頼んだのは大きなハンバーグステーキ。孫と楽しそうに食べる姿を見て何だか切なくなった。
今まで当たり前にしていたことができなくなるのだろうか、これが最後になるのだろうかと想像してしまった。父が一番不安なはずなのに。
私は自分自身の不安を打ち消すかのように鶴を折り始めた。主人と子ども達も手伝ってくれた。家族で揃って折り紙をするなんて久々だった。皆、黙々と折り続けた。
手術が近づき、病室に折り鶴を飾った。殺風景な病室が少し明るく感じた。これが支える家族の気持ち。「一緒にがんばろうね。」と。
手術当日、手術室へと向かう父の背中を見送った。言葉をかけると自分が泣けてきそうだった。ひとこと「がんばって」と口にするのが精一杯だった。
手術中は、家族室で母と過ごした。長時間になると聞いていた。父の体が手術に耐えられるのか心配だったが、テレビをつけて母と雑談したりした。それでも、いつどんな連絡が来るかと緊張の連続だった。
手術開始から七時間が過ぎ、手術が終わったと連絡があった。父のところへかけつけると、痛みに少し顔をゆがめていた。「お疲れ様、がんばったね」と声をかけた。また、生きている父に会えて良かった。
手術の担当医から説明を受けた。「手術は成功しましたよ」と聞いて、ホッとして力が抜けた。切除した部分を見せて頂いた。想像以上に大きかった。父の体から、こんなに取ってしまって大丈夫なのだろうかと思うほどだった。
父の体には、何本もの管がつながっていて、縫合部分は少しひきつっていて痛々しかった。
手術から三週間が経ち、病室で迎えたお正月。孫とトランプをしているところをカメラに収めた。年が明けて初めての写真となった。
あれから一年半が過ぎた。父はとてもやせてしまったが、今のところ再発することもなく日常を送っている。
がんの段階がステージⅠだったからなのか、早期発見が父を生かしてくれたように思う。
今回のことで、二つのことに気づかされた。一つは、ありきたりだが、定期的に検診を受けること。少しでも不調を感じたら、早めに病院へ行くこと。それは自分のため、そして家族のためでもある。
二つめは、何気なく過ぎていく日々が、とても幸せなものであるということ。
父を苦しめた病―がん。でも、大切なことに気づかせてくれてありがとう。
優秀賞 『がん予防について思うこと』 作者名 鈴木 美紀子
私の父は63歳で亡くなりました。(大腸がんです)
ある日の朝、突然の電話でした。その日、父が検査するために予約を入れていた診療所の先生からです。父が検査に来ないという電話を母が受けました。そして先生は「あなたのご主人はがんです。それもかなり進行しているから明日、必ず検査を受けさせるようにして下さい。」と言ったのです。精密検査の必要があるからという事は聞いていたのですが、私たちも、たいしたことはないと決めつけていました。しかし父は、怖かったのだと思います。かなり前から症状が出始めていた筈です。なぜ、いつも近くにいたのに気が付けなかったのか。その頃の私にとってがんは身近なものではなかったから…。
その日から私たち家族のがんとの戦いが始まりました。まず早期に手術をすること。今後転移の可能性が高いということを主治医の先生から聞かされ、とにかく1年でも長く生きるために今、出来ることをすること。そして私は自分を責めました。働き者の父を、病気には縁の無かった父を、不死身とでも思っていたのか。
その後、半年で肝臓に転移し再手術。2年半後には全身に転移し亡くなりました。最後まで私たちは父には告知しませんでした。人一倍、怖がりの父でしたからその選択は間違っていたとは思っていません。病気には疎かった父は、私たちの哀しい嘘を信じ辛い治療にも耐えました。私も不死身の父なら病気に勝てるのではないかと思うようになりました。しかし、その時は無情にも来てしまったのです。父は最後まで自分の辛さより、母と私の事を心配しながら息を引き取りました。当時、私は現実を受け止めることが出来ませんでした。今10年以上の時が過ぎ、診療情報管理室という医療の現場で多くの患者様の診療録と向き会う中で、ようやく私たちがその時、何をすべきだったのかを考えるようになりました。がんで病院にかかられる患者様のほとんどは、そうなるまでに体が何かのサインを出しているのです。現在の医療の進歩における中で、がんは早期発見出来れば治る病気です。それ故に日頃からがんを身近なものだと考え、どんな小さな体の変化でも、それを誰かに伝える事をして欲しいのです。そしてがん健診を受けて欲しい。それ以前にがんになりにくい体作りをして欲しい。父は関西の出身で豚肉よりも牛肉を好んで食べていました。関西人の大腸がんになる割合が、他の地域よりも高いと統計上、出ているそうです。そして仕事に厳しかった父は、ストレスもかなりあったのではないかと思います。そういうことにも気を付けてやれるのは身近にいる私たち家族だった筈なのに、父の優しさに甘えていました。今も思い出される病室のベッドの上で、早く元気になって仕事がしたいと言っていた父。私と母にいつも奇麗にしていて欲しいから、美味しいものを食べさせてあげたいからと言いながら笑っていた父。そんな父をもっと長生きさせてあげたかったのに、自分の無力さが今でも悔しくてなりません。
現在私は、がん登録の仕事もさせて頂いています。がん予防対策の検討を効果的に行なうためには、実態把握が非常に大切なのだと知り、届出漏れをなくすることを部署の目標に掲げ日々取り組んでいます。大袈裟かも知れませんが、この仕事に取り組んで行く事がささやかな父への懺悔なのだと感じながら、これからも微力ながら1人でも多くの患者さまが救えるように努力していく所存であります。以上が今、私ががんについて思うことです。
佳 作 『がんになる前に体の声に耳を傾けよう』 作者名 田口 静江
まさか私が「がん」になるとは思っても見なかった。
正直健康には自信があった。全く病気をしなかった訳ではない。運動不足、過食、肥満となり、高脂血症、便秘症等あったが、生活習慣、食事、運動などの不規則、怠け癖など改善していけば、健康体にもどせる自信があった。60歳になって生命保険も満期を迎えたので、入院保障も少なくしてがん保険も入っていなかった。
「手術が必要です。」説明されるⅩ線画像は、今にも閉塞してしまいそうで、十分説得力があった。「こんなことならもっと早く」「後悔先に立たず」という言葉が私にあてはまる。3年も前から便潜血を指摘されていた。腰部の圧痛が続いてマッサージ等を繰り返していた。夜はなぜか疲れて横になっている事が多かった。昨年位から便柱が細くなっていた。今年になって粘血便も伴っていた。過食した晩は2時間ほど腹部膨満感に悩まされていた。体はサインを送り続けていた。多少の努力はしていた。食事の内容を変更したり、抗脂血症、高血圧症の内服を始めたりしていた。しかし、便潜血陽性のための精査、受診という行動まで進めなかった。
「忙しくて休みがとれなかった。」とかそれは言い訳に過ぎない。健康に対する無自覚、無責任さゆえの行動だったと本当に反省する。親からもらった健康に過ごせる体を粗末に扱ってしまった。遅ればせながらの受診での結果が「がん」「手術」であった。なぜ受診したのか、それは、職場が変わったこと、役割などが変化したことなどで、さすがに3年目の精査のお知らせを受け、休みを検査の為に使ってみようという気持ちになったのである。
お陰様で手術は順調に経過した。色々な検査も受けたが、幸いなことに順調な結果であった。手術では信頼出来る医師やスタッフの方々にめぐり合えた。私の家族にも沢山支えてもらった。多くの職場の方々にも支えられた。多くの八百万の神・先祖代々の神にも助けられた。私も良き患者として精一杯やろうと自分に言い聞かせていた。実は、かなり無理をして自分の病気を受け止めた。昔からの友人、私の兄弟には連絡しなかった。というより出来なかった。自分が砕けてしまいそうで出来なかったのである。なにかの都合で話さざるを得ない場合には、自分に言い聞かせる時間が必要だった。
いま体を労わるリハビリを勉強している。食事の加減が難しく、毎日のこつこつとした努力が課題である。手術してリハビリ中であることを友人にも話せるようになってきた。いろいろな幸運に支えられ、今があることを思い、今更だが、これからは自分の体の声に耳を傾け、早めのケアをして行こうと心から思っている。「生きたい」という気持ちが強いことを自覚したので、じたばたしながらも生きていきたいと思う。
佳 作 『がんの作文』 作者名 成瀬 康子
窓いっぱいの青空を白い雲がゆったりと流れていくさまを眺めながら、「往事渺茫」という語を思い出していた。「昔のことは果てしなく遠くなり、夢のようである」ということであろう。
ここは消化器外科病棟の1室。私は手術を終え、ICUで一夜を過ごしたあと、この病室に帰ってきたところである。2月15日のことであった。
思えば、自分の越し方をこんなにも愛おしく振り返ったことなど無かった。81年の生涯…敗戦も飢えもあった。女に選挙権も相続権も無い時代も知っている。時間軸の周りを螺旋階段のように絡み付いていくものが人生なら、立ち位置を変えればどんな見方も出来る。苦しかったことも悲しかったことも、今はただ懐かしい。
それは、昨年の10月半ば過ぎであった。夜半、急激な腹痛と下痢で目覚めた。以後、全く食欲の無い日が続いた。血液検査の結果、がんのマーカー値が異常に高いことが解った。以後、検査の日々が続くことになる。まず、消化器内科での肝臓、膵臓の検査、呼吸器科の肺、婦人科の卵巣検査、これらのがんの疑いは晴れた。最後に、胃カメラによって食道がんと判った。2012年12月17日のことであった。
始めは、高齢ゆえリスクが大きく、手術は出来ないという判断であったと思う。しかし、足早に歩くことが出来、五感の対応も並みであったからだと思うが、手術の可能性を探る方向へと進んでいった。私自身はといえば、もう、この辺で人生の幕引きをしてもいいか…との思いが強かった。子供たちに迷惑をかけたくないという思いもあったし、見るべきほどのものは見つ…という思いもあったからだ。
食道がんと判明した日、内視鏡の結果を説明して下さった消化器内科の医師は、暖かい、思いやりのある先生であった。迷っている私に、てきぱきと検査の指示を出し、消化器外科の医師につないで下さった。この方も立派な優れた先生であった。じゅんじゅんと語りながら、最後の決定は私に委ねてくださった。それでも、私の心は揺れ動いていた。この間、二人の娘は交代で私に付き添い、ずっと見守ってくれた。
これらの多くのやさしさに包み溶かされるように、手術の選択をしたのは、1月半ば過ぎであったと思う。しかし、食道がん手術の大変さは、このときにはまだ解かっていなかった。その難しさ、術後の大変さを知っていたら、手術に踏み切れたかどうかは解らない…。だが、今、こうして、ここに生きている。今はそれで十分だ。
人生に、もし…は禁句だ。しかし、もし…もう少し発見が遅かったら、私はここには居ないだろう。あるいは、もう少し発見が早かったら、私は食道を失わずにすんだであろう。思えば、検診の機会は1年ほど前にもあった。だが、いろいろの事情から見送ってしまったことが悔やまれる。
だからこそ、人は、常に自分の健康に留意し、少しでも予兆があれば、直ちに検査を受けてほしい。忙しいなどという言い訳は、命との引き換えにはならない。やはり、生きていることはすばらしいことなのだ。
あと、どれだけ生きられるか解らないが、残された人生を、やさしく、賢く生きたいと願っている。