「がん検診・予防の作文の紹介」
平成26年度 入賞作品
順位 | 作者 | 題名 | |
---|---|---|---|
最優秀賞 | 匿 名 | 前を向いて生きていくという選択 | 作品へ |
優秀賞 | 匿 名 | 母の胃がん、私のスキルス胃がん | 作品へ |
優秀賞 | 匿 名 | 検診に感謝 | 作品へ |
佳作 | 竹内多恵子 | 病気になっても病人にはならない | 作品へ |
佳作 | 田桐 勲 | がんは強気と笑顔で応戦 | 作品へ |
最優秀賞 『前を向いて生きていくという選択』 作者名 匿 名
「ママ、死んじゃうの?」母子家庭で育てた小学生の一人息子に、こんな辛い心配を掛けてさせてしまいました。その時の息子の顔は、一生忘れる事が出来ません。昨年から背中の痛みがあり、いつもの筋肉痛かな?と思っていましたが、痛みが徐々に増し、今年の1月には日常生活が送れない程の激痛に変わったので、総合病院を受診したところ、乳がんの多発骨転移と診断されました。
会社や市の乳がん健診の対象年齢に達しておらず、一度も検査した事がありませんでした。がんになった事に気づかず、そのまま進行。何の心の準備もなく、いきなりステージ4。早期発見ではないので、もう手術は出来ないと言われました。がんの知識がない私は、がん=死と感じました。私が死ぬ事で息子が悲しい思いをし、泣きながら私の葬儀に出ている姿を想像する事が、一番の恐怖でした。毎日の1分1秒が、その瞬間までのカウントダウンをされているようで、少しでも息子に触れて、ぬくもりや匂いを感じていたいと思いました。私の葬儀の時、息子が私に捨てられたと思わないように、せめて息子の名前や、大好きの文字を油性マジックで自分の体に書くつもりでした。
今から5年前、色々なプレッシャーに負け、精神病院に入院した事があります。3か月の入院で、幼稚園の息子に辛い思いをさせてしまい、祖父に連れられ面会に来てくれる息子に泣きながら、もうこんな辛い思いは絶対にさせない!もう絶対離れない!と誓ったのに、がんになり、死を身近に感じました。
そんな毎日を送り、1ヶ月程してから、小学校の授業参観で、1/2成人式が行われました。授業参観に行けるのも、これで最後かもしれないと、覚悟をして保護者席に座りました。その式の中で、生んでくれてありがとうという詩が流れました。妊娠した時、胎動を感じた時の事や、出産した時の事が鮮明に思い出され、大粒の涙が溢れました。そこで、その最中、大きな気持ちの変化がありました。医師に何と診断されようと、私が死ぬ訳にはいかない。息子のこれからの成長を今まで通りに見守りたい。どんな事があっても、私が傍にいて、この子の1番の協力者であり続けたい。がんを受け入れ、前を向いて生きていくという選択しか私にはない。そう思ってからは、自然と少しずつ気持ちが落ち着いていきました。
「ママ、死んじゃうの?」と聞かれた時はそのすぐ後でした。息子がなぜそのタイミングで聞いてきたのか、なぜがんの告知を受けてすぐに聞いてこなかったのか、息子なりに色々感じ取っていたのだと思うとまた涙が出てきました。私は「昔は、がんは死んじゃう病気だったし、今も死んじゃう人はいる。でも今はママと同じ人が多くて、色々良い薬がある。がんになっても頑張って生きている人も沢山いる。ママは、これから一生病院に通い続ける必要があるし、ずっと薬が手離せないかもしれない。でも、あなたに対しての対応は今までと変わらないし、これ以上悪くならないように頑張るから、一緒に頑張ってくれる?」特に準備した言葉ではなかったのですが、息子は軽くうなずき、ほっとした穏やかな様子に戻ってくれました。
がん告知を受け半年たった今、会社へ復帰しフルタイム勤務をしています。先日の検査では、進行はなく薬が効いていると言われました。背中の痛みも落ち着いています。けれど今思えば昨年、背中の痛みを感じた時、すぐに受診をしておけば、もっと早く治療が始められたのにと思うと悔しくて仕方ありません。どれだけ後悔しても早期には戻れません。私は、乳がんの早期発見が出来ず、息子に強烈な心配をさせてしまいました。それに、自分のせいで子供を悲しませる事は、何よりも苦痛な事だと実感しました。だからこそ、他のお母さんには、積極的に検診を行ってもらい、悲しい思いをする子供が少しでも減るように呼びかける事が私の役目だと思い、作文を書かせて頂きました。
優秀賞 『母の胃がん、私のスキルス胃がん』 作者名 匿 名
2012年の秋、私は女手一つで育ててくれた母を、胃がんで失った。
わかったときは、もう末期の状態だった。母は医者嫌いでギリギリまで助けを求めようとはしなかったのだ。
私はといえば故郷を離れたところに嫁ぎ、母の不調も見抜けず、全く不甲斐ない娘であった。気付けなかったこと、何もできないことを責めながら母の元に通い、そして看取った。
母が亡くなり、愛知に戻り、普段の生活に戻った直後から体調に変化があった。怠く、顔も真っ白、動悸が酷くて立っていられない…。
ちょうど母の1か月目の月命日に、大貧血で倒れた私は救急で運ばれ、精密検査の結果、自分も進行した胃がんであるということがわかったのだった。しかも悪性度の高いと言われているスキルス胃がんであるということが。
兆候があったのかと聞かれたら、倒れる直前まで本当にわからなかったと答えるしかない。私はがんになるまでは風邪を引くのも年に1回か2回ほど。自分の健康を過信し、また子供たちも小さいことから、1日がかりになってしまう主人の会社の組合が実施している年に一度の健診もずっと受けていなかった。
涙は不思議と出ず、告知を受け止めることができた。きっと母の死後間もない時期で、死が身近にあったせいだと思う。
私は母の病が胃がんであるとわかったときから、胃がんについて自分なりに色々調べ、その中で30代から40代の女性になぜか多いという「スキルス胃がん」というがんがあるということも知っていた。この年代はまだ子育て真っ最中という世代である。こんながんになってしまったら嫌だと思っていたのに。それなのに。2人の子供は年が明けた春に、それぞれ新入学・新入園を控えていたが、もしかしたらその姿を見ることはできないかもしれないことも、正直覚悟した。母のところへいくのだ。私は、母の死から立ち直れておらず、がんになったことが自分への罰で、母と同じ景色をこれから見ることで、罪滅ぼしができるような気さえしていた。
手術を控えた12月の寒い日に、私は1日帰宅を許された。義母は私の好きなシチューを作って迎えてくれた。子供たちも大丈夫そう。夫の両親と同居していて良かったなと思った。6歳の息子は、事情をわかっているようで表情は硬かったけど、私は彼のことよりも自分のことでいっぱいだった。
病院に戻る時間が来て、夫の車に乗り込み、エンジンをかけヘッドライトをつけた。その瞬間、真っ暗な庭に小さな影が浮かび上がった。息子が真冬の庭に1人で立ち尽くしていたのだ。寒いから中に入りなさいと言っても聞かず、車が出ていくのを見送ろうと、白い息を吐きながら、何も言わずいつまでも手をずっと降っている息子を見て、がんがわかってから初めて大声をあげて泣いて叫んだ。
「生きたいよ!生きたいよ!」
私が、母親に戻った瞬間だった。
その後、私は手術を受け胃の4分の3と腸の一部を摘出し、1年の補助化学療法も無時終了した。もう少し気づくのが遅かったら、きっと今のこの瞬間はないのだと、子どもたちを抱きしめるたび思う。
女性には特有の色々ながんがある。他にもなぜか子育て世代の女性の患者が多いというがんがあることも、同じように意識してもらいたい。私もスキルス胃がんがわかったとき怖かったが、ある日いきなり母が倒れ救急車で運ばれる一部始終を見ていた子どもたちは、きっともっと怖かったはずだ。あんな思いは誰にもしてほしくない。おかしいと思ったら、積極的に病院に行ってほしい。どうか全ての検診をきちんと受けてほしい。
私は今、胃ではない箇所も少しの異変で検査・診察を受けるようにしている。無病息災ではなく一病息災。普通の身体ではなくなったが、歩けることが嬉しい。眠れることが有難い。子供の笑顔を見られることは、このうえない幸せだ。
がんは大きなものを奪っていく。かけがえのないものを、あなた自身が守っていかなければ。
優秀賞 『検診に感謝』 作者名 匿 名
元気なことが当り前だった私に、ある日突然、乳がん検診で、精密検査を受けるように言われて、それだけでも心配だったのに、乳がんと診断されて、「何で私なの…」「これからどうすればいいのだろう…」と不安でいっぱいになりました。この日は、どのように運転して家に帰ったのか思い出すことができません。なのに気持ちの整理をつける間もなく、検査、入院、手術、放射線治療と続いて行き、戸惑ってました。
私の場合は、早期発見で左乳房温存手術を受けました。乳がんと告げられた時に、医師、看護師から、「早期発見で良かったですね。」と何度も言われて、あなた達にとっては、毎日の事で習れていて、人事だと思って・・・泣き出してしまいそうな悲しい気持ちでした。 でも今は、手術、放射線治療を終えて、心から、早期発見で良かったと思ってます。
放射線治療は、1回の照射時間は数分で、着がえを含めても10分で済みましたが、土日を除いて、5週間毎日通いました。終わった時には、技師の方が握手をしてくれて、達成感のような、さわやかな気持ちになりました。でも、これから5年間続くホルモン治療が待ってます。副作用として、顔や体のほてり、体のだるさ、関節痛などの更年期障害のような症状が出て、プラス5才年を取ったと考えてください。と説明を受けました。
再発を防ぐ効果があると言われれば、ホルモン治療を受けて頑張るしかないですよね。
乳がんは、手術して終りではなく、その後も治療を続けて、経過を見ながら長くつきあって行く病気です。
だから、主治医との相性や信頼関係がとても大切だと感じました。
私がランナーだとしたら、主治医は伴走者だと思います。ランナーが上手に走れるようにサポートして行く役割が医師にはあると思います。
私の主治医は、納得して治療が受けれるように、絵や文字に書いて、ていねいに説明してくれました。また、どんな資問にも答えてくれました。診察の終りには、毎回肩をポンとたたいて、顔を見るだけで元気が出てきて安心できます。そんな主治医に出会えて、感謝、感謝です。
振り返って見れば、乳がんになって、人の痛みも多少分かるようになり、当たり前の事が、当たり前に出来る。やりたい事が、やりたい時に出来る。健康が、こんなにもありがたい事だと喜びを感じました。
早期発見で本当に良かった。
マンモグラフィ検査は、痛いのは一瞬で、たった1回の検診で、一生を救う事もある。一生のために検診を受ける位の気持ちになりました。
女性の方、どなたにも伝えたいです。
恐がらないで、乳がん検診を受けてください。自分のために唯一できることは、早期発見であれば、早期治療ができて、長生きできます。検診は身を持って、とても重要だと思いました。
最後に、愛する家族のためにも、検診を受けましょう。
佳 作 『病気になっても病人にはならない』 作者名 竹内多恵子
順調に検査中の大腸のほぼ一番奥に内視鏡が届こうとしていた時、画面に突然現われた大きなコブのような塊。それは大腸の直径の三分の二ほどもふさいでいた。「先生、これはがんですか?」と尋ねる私に医師は「生検してみなければ、何とも言えないね。」と一言。
今から六年前、朝、トイレの水がワインレッド色になって流れた。三十年近く毎年、検診は受けていたし、自覚症状も全くなかったが心配になり、近所の内科を受診したところ、血液検査も細菌検査も異常なしだったが念の為にと消化器専門医を紹介された。「これらの検査結果を見る限り、多分、大丈夫と思うけど、今まで全く内視鏡検査をした事がなければ、一度やってみたらどうですか。」と勧められ、おそるおそる受けたのだった。生検の結果は良性で「良かった!」と喜んだのもつかの間、腫瘍が大きい場合は奥の方にもがん細胞が潜んでいる場合もあるとのことで総合病院で今度は拡大内視鏡による検査を受けた。
そこでも三ヶ所の生検を受け、何とそのうちの一ヶ所からガン細胞が見つかったのだ。
がんか~自分でも不思議なくらい冷静だった。むしろ、何回も検査して発見されたのは運が良かったと思えた。しかし、正直に言えば、唯一の後悔はある。実はその数年前、健診で便の潜血反応検査二回のうち、一回が陽性で、再検査をしたところ、又もや、一回が陽性だった。医師は「二回のうち一回だから内視鏡検査を迷うところだが、しばらく様子を見ましょうか。何か変化があったらやりましょう。」とのこと。周りから辛い検査だと噂を聞いていた私は内心、ホッとした。その後、健診のたびに二回ともずっと陰性反応ばかりで、安心しきっていた矢先であった。潜血反応でひっかかった時、もっと詳しい検査を~と自分から積極的に医師にお願いすべきだった。どんな検査か、きちんと教えてもらって、噂など鵜呑みにするのではなかったと思った。
それ以来、内視鏡検査をいやがる友人達に健診でひっかかったら必ず、受けるように強く言っている。
がんだと確定して腹腔鏡手術が最適ということになったが、翌月には夫の仕事の関係で共にアメリカへ行くことになっていた。世界中の多くの国の人々が集う場に参加、交流できるという、私にとっては中学生の時からの夢が実現する大きなチャンスであったが、最初にがんを発見して下さった先生に「後悔したくなければ、とりやめた方がいいでしょうね。」と言われ、やむなくキャンセルした。しかし、家にいても頭の中はがんのことばかりだ。体調はずっと良かったので、私は自分の強運にかけた。‐病は気から‐とも言うではないか。大好きなことをして楽しく笑って手術までの日々を過ごそうと決め、ソウルへ発った。学んだ韓国語がどれだけ通じるかを試せるチャンスが街にはあふれ、嬉しくてたまらなかった。様々な場所でいろいろな人々と出会い、おしゃべりしたり、助けられたりして、私はとても幸せな気分だった。
ソウルでの数日間は私にとって自分を見つめる嵐の前の静けさでもあり、人々とにぎやかに過ごした祭のようでもあった。おかげで手術に対して全く不安もなく、どんな結果でも受けとめられるという覚悟もできていた。進行性かも~と言われた時から昨年で五年経過し、転移もなく、無事にひとくぎりがついた。
インドの村の言い伝えによると、人間は一度の旅で必ず一人の人間の姿をした天使に会えるそうだ。人生も一つの旅と捉えるなら、私は多分、がんにかかった時に出会っているのではないかと思う。執刀医からも「本当に運が良かった。」と言われるほど大事なく終わり、連係を取って対処して下さった四人の医師やお世話になった全ての方々に感謝の気持ちでいっぱいである。今後も「病気になっても病人にはならない」をモットーに食生活に注意し、楽しく旅が続けられる体力・気力・適応力を養い続けていきたいと思っている。
佳 作 『がんは強気と笑顔で応戦』 作者名 田桐 勲
「この歳になってやっぱり来たわ。今月末に胃がんの手術をすることになったよ」。
長野県飯田市に住む80歳の兄から達観したように思える口調で電話があったのは昨年3月の初め。兄が言う「この歳になってやっぱり」、は私も同じ思い。私へは何時来るのかと一抹の不安が。それには理由があります。
兄が中学1年、私が小学校へ入学する前年の12月、「母さんの小便の道の出来物は病院でも治せない」、と父から聞かされ母は43歳で他界しました。
出来物が子宮がんであることを知ったのは20数年もあとでしたが、その時から2人の頭の中にはがんの影が居座り続け、兄の言葉はその影が言わせたように思われます。
母の死後68年、がんの遺伝性について多様な見解を聞きますが、兄のがん羅患を思うにつけ、遺伝性無しとは言えないのではないでしょうか。
がんの遺伝性有無はともかく日本人の死亡原因第1位は現在もがん、早期発見と的確な治療が求められることは申すまでもありません。しかし、最も大切なことは患者が、がんに勝とうとする強い精神力を持ち体力回復に向けた地道な実践を持続させることではないかと、兄の姿勢に学ぶことができました。
4月半ば、胃の3分の1を切除後、退院して13日目の兄を見舞ったとき、重湯をすすりながら、「食事は医者の指示に従うけど体力の回復は俺の判断で進める」、と強気です。
かたわらでじっと聞いていた義姉は、「先生がまだ早いというのに体を動かしてしょうがないんだに。私が言ってもきかなくて困っておるんな」、と口を尖らせます。
食卓の上には新聞の折り込み広告の白紙部分を利用して、5月から始める予定の歩行時間と距離を記入する升目が線引きされ体力回復への意気込みを感じました。
その後私は、およそ3ヶ月に1度、兄の様子を見に自宅を訪ねていますが医者の指導を受け重湯から汁粥、その後固粥にと、徐々に普通食への準備を進めるとのことでした。
8月の盆に墓参りを兼ねて訪ねたとき、兄はひと際大きな声で、「順調な回復は医学のおかげ、でも俺は地道に努力しているんだ」、そう言いながら見せてくれたのは5月から始めたという歩行記録表。
当初は歩行時間が5分、10分の繰り返し、歩行数も連日100歩以下、それが6月後半から30分以上、500歩から800歩へと明らかな向上のあとが見られました。
笑いながら表を見ていた義姉は、「日中の飯田は暑いもんで、朝と晩の涼しい時間に私が付き添って頑張っておるんだに」、と口を挟みます。
病は、ことにがんという強敵は身近な人の元気で明るい心身とともに、地道な援助が大切なことを改めて思い知らされました。
私が住む豊田市から兄の家までは国道を車で走っておよそ2時間30分、冬は雪道が予想され車での往来は控えます。今年5月、大型連休のあとでした。「おとうさんが車で豊田へ行きたいって言うの。胃の手術から1年だし歳も80、車は無理だと思うの」、と義姉から心配そうな電話。兄の車は軽のワンボックス、75歳のとき免許の返却を考えたとのことですが思い留まり、その後豊田には来ていません。
義姉の心配は最もですが、がんに負けない姿を見せようとする兄の強気な気持ちは十分理解できるような気がします。予告もない6月3日、朝6時頃チャイムの音、私がパジャマ姿で玄関を開けると、「すみません突然。おとうさんが行くぞ、行くぞって急かすもんで」と、義姉の大きな笑顔。
続いて、「よっ、元気になったでな。今朝3時起きして家を出たんだ。運転も大丈夫だぞ」、と兄の大きな声。「笑って暮せばがんは逃げていく」。何処かで聞いた医師の言葉が真実ではないかと思えてなりません。