「がん検診・予防の作文の紹介」
平成27年度 入賞作品
順位 | 作者 | 題名 | |
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最優秀賞 | 山内 なおみ | 父が教えてくれたこと | |
優秀賞 | 佐宗 きく | 定期的にがん検診 | |
優秀賞 | 匿名 | 乳がんになって心がけている三つのこと | |
佳作 | 柴田 照彦 | 喉頭がんの経験から | |
佳作 | 小林 正忠 | 早めの対処療法のために人間ドックやがん検診を |
最優秀賞 『父が教えてくれたこと』 作者名 山内 なおみ
がんになること、治る見込みがなくなることは、非常に悲しいこと、不幸なことでしかない、と誰しも思うことだろう。私も今まではそうだと思っていた。でも父は、それだけではないと身をもって教えてくれた。
昨年の夏、父のがんは治す方法がないと分かった。五年前に見つかった肺がんが再発し、一月に手術を受け、完治できたと信じ切っていた父は強いショックを受け、なかなかその事実を受け容れられなかった。同居していた母と兄もきっと同様だったと思う。私がその事実を知らされたのは、父が「不治の病」の告知を受けてから一ヶ月以上たった後だった。
父はとても弱気になっていた。私が電話をすると、すぐに「俺はもう駄目だ。後は死ぬだけだ。」と半ば茶化したように、さばさばとした口調で言ってばかりいた。私が「末期がんでも『治る』と強く信じていたら、がんが消えた人だっているんだよ。」と言うと、「そう?ありがとう。」と力なく笑っていた。それまで一家の大黒柱として家族を引っ張ってきた父からは、想像もつかない様子だった。
何とかして父に生きる気力を取り戻してもらえたらと思い、私は敬老の日の前に手紙を書いた。「早く元気になって、志織(私の娘)に卓球を教えてあげてね。」と。父は大学時代に卓球の選手として活躍し、中学校の教師になってからも熱心に卓球部の指導をしていた。定年退職してからはいくつもの卓球クラブに入り、たびたび試合にも出ていた。体力が落ちて卓球ができなくなっていた頃だったので、少しでも元気になってもらえたら、と思ったのである。
父はこの手紙がよほどうれしかったらしい。「志織に卓球を教えるんだ」と、家の中で卓球のラケットを握り、仕切りに素振りをしていたそうである。その後、体調を崩して入院したことが二度あったが、その都度父は回復し、病院内の娯楽室で母や兄と卓球ができるほど元気になって退院していった。
しかし、がんの進行には勝てなかった。今年の三月中旬以降、急激に病状が悪化し、とても卓球ができる状態ではなくなってしまった。それでも父は「絶対にまた卓球ができるようになるんだ」と卓球クラブの半年分の会費を一人で納めに行っていた。
ただ、さすがの父も四月上旬に最後の入院をした時には観念していたようだった。私がお見舞いに行くと、父は「もう、遅いわ。志織に卓球を教えてやれんわ。もっと早く来ないといかんわ。」と寂しそうに笑っていた。残念ながら、父が志織に卓球を教える機会を作れなかったのである。でも、この「何としてでも、また卓球をやりたい」と懸命に生きる父の姿を真近で見ていた兄は、強く心を打たれたようだった。父の死の間際、兄は「お父さんは僕の誇りだったよ。」と涙ぐみながら語りかけていた。そのように兄に思わせてくれた父は、私にとっても誇りである。
亡くなってから初めて、私は父に尊敬の念を持てるようになった。たとえ残りわずかであっても、最後まで生き切る尊さを教えてくれた。今まで死は悲しいもの、不幸なものとばかり思っていたが、その人の生き様によって、残された家族に素晴らしい思い出を遺すことができるのだ、ということが分かった。
もちろん、がんにはならない方が良い。治った方が良い。でも、どうしても治らないのなら、どのように生き切るかが問題なのではないだろうか。がんになるということは、いかに自分の人生を全うすれば良いのかが問われることになるのかもしれない。
父は、生きることを諦めずに最後まで生き、完全燃焼して一生を終えることが大切なのだ、ということを教えてくれた。「いかに死ぬか」とは「いかに生き切るか」ということなのだ、と身をもって教えてくれた父には、心から感謝している。
優秀賞 『定期的にがん検診』 作者名 佐宗 きく
大腸がんの手術をして4年が経過した。
定期検診をしながら、今日まで健康な日常生活を送っている。5年前の11月これまでにあったことのない便秘と下痢のくり返しがあった。大腸がん検診の便からも潜血が見られ、精密検査の結果、大腸がんだと告げられた。
大腸がん=死、いちずに思っていた。大変な病気になってしまった。これからやりたいことが山ほどある。今こんな病気になってしまい、残念な気持ちで一ぱいだった。来年は播くこともないだろうと思いながらコスモスの採種をした。生きてわが家に帰ることはかなわないだろうと思いつつ、病院に向った。
病棟で術後のリハビリに励みながら、どうしてもっと早い時期にがん検診をしなかったのかと後悔しきりだった。がんはステージ2だが、早期発見だったら良かったのになどとあれこれ悔やむばかりだった。これまでがん検診をあまりしていなかった。なぜだろうか、がんの発見がこわかったのか、結果がわかるまでの不安な気持ちがいやなのか、がんをあまり身近に感じなかった。15年前、たまたま受けた大腸がん検診で、便に潜血が見られるから精密検査をするようにとの通知がきたがこわくて受けることをしなかった。大腸がんになれば死ぬだけだ、そんな無茶なことを考えていた。話をするとそのようなことを言ってがん検診をしない人もいる。がんになり早期発見がいかに大事かということを痛切に感じた。術後以来、胃がん、乳がん、子宮がん検診は行うようになった。がんの話が出ると、がん検診を何も受けていない人には、いかに早期発見が重要なこと、がん検診を受けることをすすめている。高齢になってから明日の命はわからないという思いが常にある。
がんになってからはなお死を強く意識するようになった。来年の予定をたてるのにも、果して来年は生きているだろうか、などと思うようになった。術後1ヶ月毎の定期検診が3ヶ月毎になり今日にいたる。抗がん剤服用だった。6ヶ月間の服用だったが4ヶ月目に白血球が減少し、医師が中止した。薬の効能がきにはおどろく程の注意がきがあり、こわいくらいだった。それでもそんなに体に強く感じる悪いことはなかった。検診の前にはいつも不安におののくが、異常がなければ一まず安心して、今できることを精一ぱい、明るくすごす。先日の子宮がん検診の医師が「大腸がん手術は内視鏡でやりましたか」と聞かれた。やった当分の間は、子宮がん検診の医師にも腹部の傷をみて「あれ」と声をあげたこともあった。今は自分でもふれてもわからないし傷口もよく見なければ判断できないくらいになった。内科医が傷口を見て「きれいに縫ってある」と言われた。あの時に手術をして頂き今日現在は健康で、働きご飯が美味しく食べられ感謝している。山村で一人ぐらしをしているが大腸がん手術の時には名古屋にいる息子夫婦が世話をしてくれた。家族のありがたさ、医学の進歩に感謝している。
がんは発病してもすぐに症状がでない。手術をして終わりではないから常に不安がつきまとう。
だから検診しかない。今のところどこといって悪いことはないが、「大腸がん治療中」と病院の問診票に書いている。よりよい生活をおくりたいそんな願いからまずは健康でありたい。大腸がん手術のため予定していたニュージーランドの旅行をキャンセルした。
名古屋の病院で残念でならなかった。2年後行くことができ願いがかなった。あの時手術ができて良かった。できなければこうしてはいられなかったかも知れない。
これからがんにかからなくて平穏な日常が送れることを祈っている。
優秀賞 『乳がんになって心がけている三つのこと』 作者名 匿 名
私は、今から6年前に定期検診で右乳がんが見つかり、セカンドオピニオンを聞いた今の主治医の執刀で右乳房を全摘した。幸い今のところ再発も転移もリンパ浮腫もなく、普通に暮らせている。今は一年に一度主治医の診察を受け検査している。心がけていることが三つある。
一つ目は、自己検診。実を言うとこれはしこりなのか?骨なのか?触ってもよくわかり切っていない。それでも主治医の「気になるところが大きくなったり小さくなったりしたら来なさい。自分でなら毎日でも触ってみれるでしょう。」とのお言葉で、今のところ大丈夫そうだ。
二つ目は、乳がんの知識を得ること。主治医の診察室の前にある「患者さんのための乳がん診療ガイドライン」(日本乳癌学会編)は更新出版されるたびに買っている。ネット環境を持たず、ネットの情報は玉石混淆であるので、ネットはきらいなのだ。どうしてもという時は、主治医の病院はがん診療拠点病院なので、そこの医療相談室のパソコンを使わせてもらったり、リーフレットをもらったりしている。行きつけの喫茶店でいっしょになることがある年上の方も胸の痛みに悩んでおられたので、先述の医療相談室のがん相談のプリントをもらってきてお渡しした。その方は色々あって今は私と同じ先生に術前ホルモン治療を受けておられる。
三つ目は、聞きたいことは聞けるチャンスを逃さずに聞くことだ。主治医の診察時は、気になる症状や聞きたい事を前以てメモし、お答えもメモする。忘れてしまうからだ。術前は非浸潤がんと言われていたのに、術後1.2cmと0.4cmの浸潤がんが病理検査で見つかった時は、先生にお尋ねした。「二年に一度でなく、一年に一度検査しておれば浸潤がんにならずにすんだのでしょうか。非浸潤がんならば術後は抗がん剤もホルモン剤も必要なく、生存率も100%ということでしたが、抗がん剤とホルモン治療が必要になってしまいましたが・・・。」というようなことを。先生は「過去のことはタイムマシンに乗らないと変えられない。今からできることを頑張りましょう。」とおっしゃって下さった。それで納得して3ヶ月の抗がん剤治療と5年のホルモン治療を頑張れた。先生と家族、支えてくれた皆様に感謝の気持ちで一杯である。
先日、市内の乳がん患者会で「乳がん術後のリンパ浮腫講習会」があることを医療相談室で知り、会員ではないが参加させていただいた。2年くらい前に忘年会ランチに参加させて頂いて以来のことだ。とても有益であった。そこで講師の先生にお尋ねした。「私はセンチネルリンパ節生検を受けただけでリンパ節を取り除いてはいないのですが、これからも無理をしなければリンパ浮腫の心配はないのですか。」先生は「医療機関にもよりますが、データによると、浮腫ができる割合は、センチネルリンパ節生検のみの人で0~13%です。リンパにさわることは、それだけリスクがあるということです。」とお答えになった。びっくりした。油断はできないのだな、と。日を置かずに会幹事のMさんからのお葉書を頂いた。「質問に感激しました。今までそんな質問が出たことはなく、リンパ節をとらなければ浮腫の心配はないと考えていたので。ということは、オペした人はみな一度はこういう話を聞いておいた方がいいことになります。」とのことだった。会員でもない私に宛てわざわざお葉書でコメント下さったことに感激・恐縮してすぐお返事を書いたが、
私の質問したことがその食事会場にいた方の役に立ったのなら、嬉しいことであった。
今後再発するか、他の大病にかかるか、先のことはわからない。感謝の心を忘れず、無理のない範囲で毎日を悔いなく過ごしたい。
佳 作 『喉頭がんの経験から』 作者名 柴田 照彦
平成13年8月頃、58才の時、長く喋っていると、少し声がかすれるようになりました。かすれ声は、すぐに治ると思っていましたが、かすれた状態が続きましたので、1番目の病院で受診(初診)。
若い医師から「竹の筒の中のように白く薄い幕のような物があるから取った方が良い」と言われましたが、生活に支障もなく、又、仕事を休むと職場の皆さんに迷惑をかけるので入院治療はしませんでした。
2か月後の10月職場で新任主任訓練で講師をした際、後方の席の訓練生から聞き取りにくいと言われたことがありました。
営業活動をしている時、お客様から何度も聞き直されることもあり、声は依然かすれていました。
H15年3月、千種郵便局を最後退職し、部外団体に就職しましたが、ここでもお客様に声が聞き取りにくいと言われました。最初にかかった病院では、H16年12月までに17回受診し、二人の親切な若い医師にお世話になりましたが、がんの話はありませんでした。
H17年2月、自宅から通院に便利なA病院にお世話になりました。ここでは、最初若い医師でした。ここでもがんの疑いは全くありませんでした。私の担当の若い先生が転勤することになり、部長先生が担当になりました。すると喉頭ファイバーで直ぐに「声帯の一部が腫れている」と言われ、検査入院、残念!喉頭がんが発覚。
頭の中は真っ白になり、家族との会話も少なくなり、悲愴感に浸ってしまいました。しかし、当病院では手術はできないと言われ、三番目の病院、B病院を紹介していただきました。喉頭がんはT2の状態でした。治療法は、抗がん剤と放射線照射(66グレイ)。放射線治療で首の皮膚はただれ、痛みとの闘いでした。それ以降、毎月1回診察を受け、9か月後に完治と言われました。担当医師が転勤され、H19年8月から担当医師が頭頸部部長に代わられ、喉頭ファイバーで声帯の一部が白くなっているのが確認され、9月19日に再発を宣告され、再入院し、11月6日声帯全摘出、声を完全に無くしました。
手術日が迫ってきたある日、私の兄弟及び姪、甥達が病院へ見舞いに来ていただきました。自暴自棄に陥っている私は恥じることもなく嗚咽を押える事は出来ませんでした。
入院して一人でいると「がんイコール死」と言う文字が頭の中を横切っていきました。家族の事が次々と浮かんできました。私が亡くなった後の妻、子供達はどうやって暮らしていくのだろう。いろいろ苦労して生きていかなければならないのだろう。マイナス発想のことばかり浮かんで、気も沈んでいたので、親しい人々がお見舞いに来ていただくと、ついつい涙を流してしまう弱気なところを見せてしまいました。
現在は食道発声をマスターし、微力ですが食道発声訓練士として同じ病気で言葉を失った方々の発声のお手伝いをしています。
喉頭全摘出を行うまで6年も経過してしまいました。お世話になった病院は、3か所、先生は6人。今、振り返ってみれば、早期発見のためがん検診は絶対必要です。又、同じ病院に固執して長引いている場合、時には、セカンドオピニオンに思い切って受診してみることも必要ではないでしょうか?
佳 作 『早めの対処療法のために人間ドックやがん検診を』 作者名 小林 正忠
早いもので、前回の健康づくり振興事業団の「がんの作文、スローガン」募集から2年が経ちました。平成20年に胃がん告知、そして半年後肝臓がんの告知を受けた時には覚悟をしました。しかし、幸運にもすばらしい主治医の先生と大学病院を紹介していただき、手術、術後治療の結果、命を長らえています。只々感謝の気持ちです。
2人に1人が「がん」になる時代と言われ、5月に2才上の先輩が膵臓がんで、旅立たれました。辛く悲しいことです。自分自身の周りで「がん」で亡くなられる方があるたびご冥福を祈りながら、みなさんの分まで、長らえさせていただけるよう、「術後の管理」に気をつけています。
今は、経験者として少しでも多くのみなさんに、少しでもお役に立てればという思いで、今回も寄稿させていただきました。
先輩も定年まで金融機関でお勤めになられ、ご子息も立派に成長されて、傍(はた)から見れば、順風満帆な人生だったと思います。そして、これから第2の人生を楽しく、有意義に過ごすためにいろいろな計画をされていたのではないかと思うと一層、辛くなります。「がん」という病気は、誰にでも突然やってきます。そして無情に人々の夢を打ち砕いてしまいます。先輩もお勤めの時には、定期的な人間ドックやがん検診を受けて見えたと思います。医療技術進歩や検査機器の能力などは日進月歩で向上していると思いますが、それでも初期段階で「がん」を発見することは難しいことです。
60才を過ぎ、現役を離れると健康診断を受けるにも手続きは自分で行わなければならないなど、手続きの煩わしさからややもすると遠ざかりがちになります。年齢的に「がん発症」のリスクがより高くなる時であり、知人の死に直面した今、改めて受診結果は怖いですが、自覚症状がない時こそ人間ドックなどを受診し、何かあったら早期発見・早期治療の対処ができるようにすることが、本当に大切なことだと思います。
最後に、私は術後7年近く経過し、「再び」の不安はいつもありますが、順調に元気を取り戻しています。それでも車、電車、バスを乗り継いで約2時間をかけて大学病院に通院することが、だんだん負担になってきています。病気のことを考えれば「遠いから」「負担だから」というわけにはいきませんが、幸いにもがんの手術の時に関わっていただいた先生が住いの近くで、独立開業されたため、日々の診察や薬の受取、体調管理などについて、相談に乗っていただいています。不安もありますが、今は家族含めこころから安心して、毎日暮らすことができているのは「掛りつけの医師(先生)」があるからだと思います。私のように「幸運にも」ということはあまり無いかも知れませんが「掛りつけの先生」を持たれることも大事なことだと思います。これからも頑張ります。