「がん検診・予防の作文の紹介」
平成28年度 入賞作品
順位 | 作者 | 題名 | |
---|---|---|---|
優秀賞 | 岡本 明雄 | 「どう生きるか」ではなく「どう生きたか」を問いたい | |
優秀賞 | 加藤 那津 | がんになっても生き生きと生きる | |
優秀賞 | 匿 名 | みんなの希望 乳がんトップランナーになりたくて | |
佳作 | 小林 正忠 | 「掛りつけ医」の先生に助けてもらったいとこの命 | |
佳作 | 伊藤 弘子 | 五年目の夏に |
優秀賞 『「どう生きるか」ではなく「どう生きたか」を問いたい』 作者名 岡本 明雄
2014年11月27日
先生から発せられた言葉は、「肝門部胆肝癌です。悪性です。5年後の生存率は40パーセントです。」その時一緒に聞いていた妻は椅子から崩れ落ちた。私の目の当たりから消えた。脳裏をかけめぐる。まるで映画の一場面かのように冷静、客観的に見ている私の姿はどういう風に映っているのだろうか想像できない。
この時の様子を私は日記に「結果胆肝ガンと悪性で手術と報告されました。予想していたのでショックは無く妻の落たんにびっくりしました。後はガンバルだけ」1年近く続けていた手書きの3行日記だがどこかしら淋しさを感じた。さほど衝撃は走らなかった。
悪性という意味がよく理解していなかったせいなのか後にガン保険を請求したところ1週間で保険金が振り込まれた。悪性の進行癌を再認識した。ダブルパンチを浴びせられた感じでした。それからの毎日全身の検査が行われた。その中でも大腸検査の辛さは耐え難いものがあります。異常無く良かったですが、もう二度としたく無いことのひとつです。
時間は、容赦なく過ぎていくそんな中手術は、「当病院では出来ないとの言葉でした。」
そしてセカンドオピニオンを紹介されこのことがどういう意味かわからないまま癌の状態は、胆肝の外側の血管にまで達していて「当病院では、内臓の血管を手術できない」との宣告であった。
紹介された病院は日本で有名な肝門部胆肝癌専門医であったことから一安心、次のステップに進められたことに感謝した。
2014年12月11日転院の日
セカンドオピニオン有名な病院であったが何か違和感を・・・、職業病かもしれないが、全てを担当医にまかせるしかなかった。
病室の患者は、ほぼ全てが胆肝癌で入院されている人ばかり、たまたま退院する予定の人と話ができた。
その方が胆肝癌と宣言された時思ったことは、自分が死ぬのではないかという不安より残された家族のことを考えていたと言いました。私も同感でした。
妻53歳子供長女22歳長男25歳残された3人が生活できるのか、そちらのほうが不安が大きく自分のことなどどうでもいいと思えてしまうのです。家族に怒られてしまいそうですが今でもその気持ちは変わりません、そしてこれからも。
転院後は前医院と同じような検査を行い、翌年1月13日手術が決定した。坦々と検査が進む中、癌は治るものと思い手術も成功し、元気になれると信じて止まなかった。しかしその思いは長く続かなかった。
2015年1月12日手術前日、突然の延期従前の抗ガン剤治療私は開始することを決断した。一般的に闘病生活と言いがちですが自分としては最後の日をむかえる時「あ、あの時抗ガン剤やっておけば良かった」と「やらずに後悔するより、やって後悔したい」気持ち「抗ガン剤使ってもこれまでか」と今でも思い抱き乗り切っています。
2015年4月22日突然手術中止
この時日記は妻のショック私の動揺がすごく乱筆でした。
2015年5月22日決断
最初に癌を発見した病院への転医と今後は後悔しない決断をしていくことが大切だと思いました。そして日記帳の最初のページには
転移を制するものはガンを制す
体力勝負
今日一日生きるか死ぬか真剣勝負
悔いのない人生
を記して仕事に復帰いや復活した。今も担当医と人生観を語り合っています。
優秀賞 『がんになっても生き生きと生きる』 作者名 加藤 那津
1.はじめに
がん家系。まだ、がんには遺伝性のものがあると知らない時から知っていたいわゆる「がん家系」という言葉。祖父母をがんで亡くし、親戚にもがんが多く「がん=怖いもの」と言うイメージがしっかりついていた。そこで、大人になってから私が選んだ選択肢は「がん検診を受ける」というもの。
2.若くてもがんになる
私は、30歳になった2008年から乳がん検診と子宮がん検診を受けた。はじめて受けた検診は、異常なし。「よし!毎年お誕生日月に検診を受けよう」と心に決めたあの日。
しかし、あの日から1年経たないうちに私は乳がんの告知を受けることに。2009年の春に右乳房に異常を感じ、2軒目の病院で「大きな病院へ行ってください」と告げられ大学病院を受診。その秋に乳がん患者となった。
幸い早期だったこともあり、乳房温存手術、放射線治療を経て、5年の予定で術後再発予防のホルモン治療を開始。副作用は耐えられない程でもなく、何とか続けられそう。
早期発見であっても再発や転移の不安はあるもの。でも、年を追うごとにその不安も薄れ、がん中心だった生活からがんになる前の日常を取り戻し、人生の新しいステップを歩もうとした矢先の2013年夏に乳がんの再発告知。この時頭を過ぎたのは「なぜ早期だったのに?」「なぜ決められた治療をしているのに?」「もしかして、遺伝性?」と言う疑問。
疑問を解決するために、遺伝子検査を受け、乳房全摘手術を受け、ホルモン治療を継続。遺伝子検査の結果わかったのは「私のがんは遺伝性のもの」と言うこと。これではっきりした。「体質みたいなものね」と。そして、将来を悲観する意味ではなく「私は一生がんとのお付き合いが続くのね」とも。
3.がんになっても生き生きと生きる
誰だって病気になんかなりたくない。でも、なってしまう。そう言う運命なのならその運命を自覚し、人生をできるだけ前向きに生きたい、と考える様になった。
がんになっても生き生きと生きたい。「がん」に関わる「何か」をしたい。そう思いつつ「何がやりたいか」「何ができるかわからない」と悶々とする日々。そして、7年前に私が抱いていた思いを解消するためにある決断をする。
4.若い患者さんが集まりほっとできる時間と場所―「くまの間」―
地元名古屋には「若年がん」(だいたい40歳くらいまで)の患者さんが定期的に集まれる場所がないことをずっと心の中で嘆きながら暮らしてきた7年。「誰か若い患者さんが集まれる機会を作ってくれないかな」といつも思っていた。でも、自分は「一生がんとのお付き合いが続く」のだと言うことを思い出し、「無いなら、自分で作ろう!」と「若年がんサバイバー&ケアギバー集いの場 くまの間」という会を2015年11月に立ち上げた。「くまの間」という名前には、大好きな「くま」と「お茶の間でほっこりしているような気分が味わえる場を作りたい」と言う思いを込めた。
「これまでずっとこう言う場を探していた」と参加してくれるみなさんが声をそろえて言う。それは7年前私が抱いていた思いと同じ。あの時と変わってないんだとしみじみと思う。
そして「くまの間に参加して元気になれた」「くまの間に参加するのを毎月の目標にしている」と言ってくれるみなさん。でも、本当は私が一番「くまの間を開催することを目標に」毎日を生きているし、「くまの間でみなさんから元気をもらう」のは私。
5.おわりに
子どもの頃から大人になって自分ががんになるまで「がん=怖いもの」と思って生きてきた。しかし、自分ががんになり「がんになっても生き生きと生きられる」のだと知った。
私は「がんになって良かった」とは到底思えないし、一生思えないと思う。しかし、がんになったから出会った人々、はじめた挑戦などなど「がんのおかげ」はたくさんある。
がんになっても生き生きと生きられるのだ。
優秀賞 『みんなの希望 乳がんトップランナーになりたくて』 作者名 匿 名
2014年34歳、母子家庭の為、自分一人の力で息子を育てていく事に責任と期待を感じ、仕事に子育てと、充実した毎日を過ごしていた頃、乳がんがステージ4で見つかり、こちらの愛知県健康づくり振興事業団へ「前を向いて生きていくという選択」をした経緯の作文を提出させて頂きました。あれから2年、今の私の生き方について再び作文を書かせて頂くことにしました。
実はあれから、前を向いて生きていくという選択をしたものの、実際にどのように生きていけば前を向いて生きているという事になるのだろうかという疑問が生まれ、しばらく悩み続けていました。仕事は今も継続していますが、初めの頃は、乳がん、子育て、仕事の3本立ては、私の想像以上にきつく、仕事をしているといつも夕方にはくたくたでした。乳がんに対する不安が消えず、苦しい現実から逃げる為に、こうでなければならないと決めつけて「いつ最後の日が来たとしても、後悔のないようにしたい」と、乳がんの告知を受けてから、私は「死ぬ」とか「最後」というワードにばかり囚われていました。そのため、生活全体に対し、これが最後、今日で最後かもと思い、つい無理をしてでも、自分が設定した目標をこなす事に必死で、考える事全てが最後の日を基準にして行動しているうちに、元々あったパニック障害が重症化してしまいました。そして毎日毎日、自分の生き方について色々考えました。
今までのように、最後の日を常に意識して目標を立て、無理をする事は、前を向いて生きているという事にはならないと徐々に気付き始めました。乳がんになったショックは大き過ぎましたが、それをただ苦しんでいるだけではいけないと感じました。私に何が出来るのか、これからどんな人生にしたらいいのか。
具体的な事が決まるまで、この痛みのない体を実感し、乳がんの恐怖を忘れる気晴らしの為に通っていたスポーツクラブで、たまたま出会ったフラダンスのレッスン。インストラクターの先生に、がん患者である事を伝え、途中退室するかもしれないと、控えめな気持ちで受けたレッスンですが、始まってすぐにハワイアンの曲に心が癒され、生きてこの場にいられる嬉しさで涙が溢れました。ずっとこの時間を過ごしたいと強く思い60分間のレッスンがあっという間に終わりました。私のような進行がんの患者でも、笑顔で楽しむ事が出来ると気づいてから、自分もインストラクターとして、みんなを笑顔にしたい。乳がんのトップランナーになって、みんなの希望になりたいと思うまで、時間は掛かりませんでした。自分の可能性を信じて、前を向いて生きていくという具体的な目標が明確になった出来事でした。乳がんの治療を続け、子育てをし、仕事に行く、更にパニック障害をコントロールしながら、インストラクター養成スクールで合計70時間のレッスンを受けました。乳がんの恐怖を忘れる為の気晴らしではなく、今、生きていられる感謝の気持ちを表現出来るインストラクターになりたい強い思いしかありませんでした。お陰様で5月の認定試験の結果は、無事合格でした。
先月よりサークルを立ち上げ、インストラクターとしてレッスンを担当出来るようになりました。会員の方の約半数は、フラダンス初心者のがん患者さんです。病気や生活に対する不安や憤りなどありますが、私のレッスン中は全て忘れ、60分間を笑顔で過ごして頂いています。同じ仲間だからこそ、成り立っている癒しの時間です。
フラダンスに出会い、毎日を楽しく過ごす事で、今では仕事の疲れもあまり感じなくなりました。私の乳がんが今後、どうなるのかは分かりませんが、命ある限り、これからも「前を向いて生きていく選択」をし続けたいと思います。
そして、みんなの希望、乳がんトップランナーになれるよう、生きている事に感謝し輝き続けたいと思います。私の生き方が、少しでもがん患者さんの希望になれば幸いです。
佳 作 『「掛りつけ医」の先生に助けてもらったいとこの命』 作者名 小林 正忠
今年度も事業団の「がん検診・予防の作文」募集が始まりました。私も8年前に人間ドックで、胃がん(術後半年後に肝臓へ転移が判明)の診断を受け、幸い発見が早く、術後の経過も良く、元気で今も働いています。
「2人に1人はがんになる」と言われていますが、今年の5月、隣町に住んでいる従姉妹三姉妹が十数年ぶりに訪ねてくれました。話を聞けば私の病気(がんでもうダメだ)を心配して様子を見に訪ねてくれたとのことで、風の便りに間違った情報が流れたようで、元気な姿に大笑いでした。
でも、本当は心から喜んでくれたことが感じられ、涙腺が緩みました。
皆、還暦を過ぎて話題はご主人が亡くなられたとか、老々介護に疲れているというような話ばかりで、その次に自分の健康のことです。真ん中のいとこは2年前、私と同じ「胃がんを宣言」され、安城の病院で胃の4分の3を切除しました。幸いにも術後経過も良く、今も働きながら定期的に診察を受けているとのことでした。いとこは嫁ぎ先の家業の八百屋さんを手伝い、朝から晩まで働き詰めで過ごし、何年か前、八百屋さんの廃業を機にパートに出るようになり、また働き詰めでした。
何か自覚症状があったのか詳しく聞けば、がんを宣告された時も今の職場で働き、還暦を過ぎたせいか身体がだるかったり、以前と比べ疲れやすくなった程度の症状があり、パートに出るようになってからいつも通っている近所の開業医で、点滴を施してもらったり話を聞いてもらう程度で、深刻には考えていなかったそうです。ある日先生から「胃カメラを飲んだことがありますか」と聞かれ、「いいえ」と答えたら先生の紹介で安城の病院で、初めて胃カメラを体験することになり、検査の結果、「胃がん」が見つかったということです。
開業医はパートに出るようになってから近所でもあり、日頃から何かにつけて診察や体調の相談をしていた先生で、結果的にいとこにとっては「掛りつけ医」的な存在でした。先生に胃カメラを薦められなかったら、発見が遅れて遅れになっていたかも知れません。術後の経過観察や定期的な検査は安城の病院で、普段は開業医の先生に診てもらっているそうです。私も定期的な精密検査は大学病院で、それ以外の投薬や体調管理の相談は近くのクリニックの先生(大学病院OB)にかかり、何かあれば転送していただけます。私の大事な「掛りつけ医」の先生です。
みなさん、いつまでも健康でいられる保証はありません。「2人に1人はがんになる」という時代です。もしもの時のために「掛りつけのお医者さん」と定期的な健康診断(検査)は必要ですよ。また、何ごとにもプラス思考で、前向きに笑って、免疫力を高め「がん」なんかに負けては居られませんよ。
佳 作 『五年目の夏に』 作者名 伊藤 弘子
乳ガンに罹って今年の夏で5年が過ぎた。
多くのガンは5年間生存していれば、大体安心らしいが、乳ガンは10年後だろうが20年後だろうが、再発することもあることは知っていたので、5年過ぎたといって万々歳というわけにはいかない。この5年間、3ヶ月如に病院に行き、血液検査をしCTや超音波検査を受けてきたが、それももういいでしょう、と主治医は言った。
「これからは1年に1度でいいです」
ホルモン薬をずっと飲み続けてきたが、
「それももういいです」
別に病院に行きたいわけではないが、いきなりもう来なくていいと言われると、少し拍子抜け。おまけに薬も。ホルモン剤は長く飲み続けても悪くはなく、知人に10年飲んでいるという人もいた。
「急に止めると、止めたということで変調をきたす人もいるので、安心のため気安めに飲んでもいいですよ。」
にこやかに主治医は言った。あと10年後、20年後に再発したとしても、それはもう寿命と考えてもいいのではないか。主治医も「再発は運ですよ」と言った。
ガンに限らず病気や事故、人生自体運とも言えるのではないか。30代40代の若い時にガンになっていたら、子供もまだ小さく、仕事も続けられたかどうかわからない。仕事がなければ生活ができない。私にガンが見つかったのは66才の時だから、むしろ運が良かったと思う。
おまけにガンの程度もそんなに悪くないものだった。大きくはなかったが2ヶ所に出来ていたので、全摘ということになったが、ホルモン剤だけで治療すればいいものだった。
放射線とか抗ガン剤となると、いかにも体力を使い、精神的にも疲れそうだが、薬だけといのは負担が少なかった。
考えてみれば、私は時々自己診断はしていたが、ここしばらくはちょっと油断して、手を抜いていたかもしれない。うちの家系は、私の知る限りガンになった人なく、お酒は好きで若い頃は度々飲んだとはいえ、元々弱いので多くは飲めなかった。タバコは吸わず、油っこい物はあまり食べず、何となく乳ガンはボインの人がなると思い込んでいた。
でも5年前、自分で何げなく触れてみると固い不気味なしこりがあり、素人判断ながらこれはガンだと思った。確信していたので、翌日病院に行きはっきりガンと言われても、さほど動揺はしなかった。しかし全摘とは思いもよらなかった。私は自分の胸に謝った。
いつの間にかガンは誰でも罹りうる病気になった。これには食事などの生活様式の変化の他に、何か影響を与えている根本要因があるような気がする。細胞の劣化ということなら高齢者がなるのはわかるが、20代30代の若い人がなるのはなぜなのだろう。
乳ガンに限っても、マンモグラフィなどの検診を受ける人の割合は、日本は少ないという。少しでも早く受診していれば、早く発見でき、治る確率も高くなるわけだから、学校などで若い人にきちんと教えることも大切だ。
ガンになって私は学んだ。5年目を乗り越えたといっても、安心してはいない。私は高齢者だから言えるのかもしれないが、再発してもうろたえず、受け入れるものは受け入れ戦う時は戦おう。毎日しっかり楽しんで、有意義に暮らそう。頑なにならず、体にいい事や物を意識して取り入れ、ストレスを貯めないような生活を続けていこう。どれだけ気をつけていても、なる時にはなってしまうことを自覚して生きている。
ガンになってから何人かのガン友ができた。
誰も他人にベラベラと吹聴はしないが、病を得て懸命に生きているのだ。ガンの他に数種類の難病を抱えながらも軽いスポーツや文化的な集まりに出かけている人も多い。ガンの人が集まる交流会もあるので、参加して情報を得、私のこの5年間、そして今後も充実したものにしていきたいと思う。